こんにちは、みっつです。
当ブログでは、野球に関しての話題を多く提供してきました。背番号についても、主な番号について解説しています。
今回は日本のプロ野球における、背番号23番についてお伝えしていきたいと思います。
どのような選手が背番号23番をつける傾向にあるのか、そして背番号23番をつけて活躍した選手もご紹介しますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
背番号23番をつける選手の特徴って?
日本プロ野球の歴史を紐解いてみると、背番号21番と22番には好投手が目白押しなのに対し、背番号23番をつけた好投手はほとんど見当たりません。
という事で、背番号23番は野手のイメージが強い番号であると言えます。
各球団の歴代の背番号23番を調べてみると、長距離打者からヒットメーカーまで好打者がずらりと並びます。
特に、背番号を23番に変更したことで実力が開花した選手も多く、最近では、出世番号として好まれているようです。
また、日本プロ野球における背番号23番は野手というイメージは、外国人野手から始まっているともいえます。その選手について後程ご紹介します。
背番号23番の歴代名野手をご紹介
次に、背番号23番をつけて活躍した名選手を、5人ご紹介していきますね。
青田昇選手
生年月日 1924年11月22日
出身地 兵庫県
投/打 右/右
プロ野球歴 東京巨人軍(1942年~1943年)
阪急軍(1946年~1948年)
読売ジャイアンツ(1948年~1952年)
太陽ホエールズ(1953年~1958年)
阪急ブレーブス(1959年)
タイトル 首位打者1回、本塁打王5回、打点王2回
青田選手は16年間の現役生活で、4度の移籍をし、5つの球団を渡り歩いた選手です。
特に、青田選手は川上哲治、千葉繁選手とクリーンナップを組み、巨人の第一次黄金時代を支えた選手として知られています。
青田選手は入団当初背番号32番でスタートを切りましたが、その後、背番号12番を経て、1948年2度目の巨人入団後は背番号23番をつけるようになりました。
青田選手の首位打者1回と本塁打王5回の記録は、すべて背番号23番のときに成し得たものです。
まさに、青田選手にとっては、背番号23番は出世番号となりました。
飯田徳治選手
生年月日 1924年4月6日
出身地 神奈川県
投/打 右/右
プロ野球歴 南海ホークス(1947年~1956年)
国鉄スワローズ(1957年~1963年)
タイトル 打点王2回、盗塁王1回
表彰 年間MVP1回
飯田選手は1948年9月から1958年5月まで、連続1246試合出場の記録を樹立しており、後に、広島東洋カープの衣笠祥雄選手に破られるまで、長くプロ野球記録として讃えられていました。
飯田選手は、南海ホークスと国鉄スワローズの17年間の現役時代だけではなく、その後の、コーチ時代にも背番号23番をつけ続けました。
吉田義男選手
生年月日 1933年7月26日
出身地 京都府
投/打 右/右
プロ野球歴 阪神タイガース(1953年~1969年)
タイトル 盗塁王2回
表彰 最多安打1回
日本プロ野球史で、背番号23番で唯一の永久欠番が吉田選手になります。
「今牛若丸」と呼ばれたほど、華麗でありながらミスのない守備は、まさに芸術品といわれました。
ベストナインを9回も獲得するなど、プロ野球界を代表する遊撃手として、背番号23番の功績が讃えられています。
木俣達彦選手
生年月日 1944年7月7日
出身地 愛知県
投/打 右/右
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(1964年~1982年)
タイトル 特になし
中日ドラゴンズで19年間に渡り、背番号23番をつけ続けたのが木俣選手で、1969年にセ・リーグで初めて、捕手として30本以上の本塁打を放った長距離打者です。
中日ドラゴンズ一筋にプレーをした木俣選手は、日本プロ野球界の捕手部門で、歴代4位となる1876本の安打を残した強打の捕手でした。
ローバート・ローズ選手
生年月日 1967年3月15日
出身地 米国カリフォルニア州
投/打 右/右
プロ野球歴 カリフォルニア・エンゼルス(1989年~1992年)
横浜DeNAベイスターズ(1993年~2000年)
千葉ロッテマリーンズ(2003年)
タイトル 首位打者1回、打点王2回、ゴールデングラブ賞1回
ローズ選手は、横浜DeNAベイスターズに所属していた8年間を、背番号23番で過ごしました。
また、1994年から引退した2000年までの7年間、打率3割をキープし続けると、1999年には打率と打点の2冠王に輝いています。
日本では輝かしい記録をいくつも残したローズ選手ですが、アメリカ大リーグでは目を引く実績もなく、入団当初の評価が低かったことには驚きです。
背番号23番の歴史を作った外国人選手を紹介
お伝えしたとおり、背番号23番を野手のイメージに植えつけた、2人の外国人を紹介いたします。
バッキー・ハリス選手
生年月日 1908年9月25日
出身地 米国カリフォルニア州
投/打 右/右
プロ野球歴 名古屋軍(1936年)
イーグルス(1937年~1938年)
タイトル 本塁打王1回
表彰 年間MVP1回
日本プロ野球がまだ1リーグの時代に、背番号23番で活躍したのがバッキー・ハリス選手です。
1936年、日本初のプロ野球リーグ戦がスタートすると、名古屋軍総監督の河野氏が外国人選手を探すようになりました。
その中で、ロサンゼルスの日系ドリームに所属していたバッキー・ハリス選手に白羽の矢がたち、1936年に入団しています。
翌年に、名古屋軍からイーグルスへと移籍したハリス選手は、外国人選手として初のMVPを受賞する活躍を見せました。
1938年のシーズン終了後、戦争の影響でアメリカへ帰国することになったバッキー選手を、当時では異例の送別試合が催されるなど、日本のファンに愛された外国人選手でした。
呉昌征選手
生年月日 1916年6月28日
出身地 台湾高雄市
投/打 左/左
プロ野球歴 東京巨人軍(1937年~1943年)
大阪タイガース(1944年、1946年~1949年)
毎日オリオンズ(1950年~1957年)
タイトル 首位打者2回、盗塁王1回
表彰 最多安打1回
台湾出身の呉昌征選手は、戦前から戦後にかけて、日本のプロ野球界で強肩外野手として活躍した外国人選手です。
呉選手は「人間機関車」のニックネームを持ち、馬力のあるバッティングが魅力の選手でした。
巨人では1942年から2年連続首位打者を獲得する活躍を見せ、その後、阪神に移籍をすると、1946年には投手としてノーヒット・ノーランを樹立しました。
呉選手の高校時代を映画化した、タイトル「KANO 海の向こうの甲子園」は、台湾で映画化され2014年に公開されています。
日本の統治下であった台湾で、呉選手がエースとして甲子園に出場し、準優勝をした物語です。
まとめ
今回は、日本のプロ野球における背番号23番を特集しましたが、いかがだったでしょうか?
ピッチャーが少なく野手がつけているケースが多いのが、特徴と言えますね。
背番号23番は野手がつけるというイメージを植え付けたのは、2人の外国人選手だったというのは興味深い話でした。
今後、日本のプロ野球で、どのような選手が背番号23番をつけて活躍するのか、楽しみですね!
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。