こんにちは、みっつです。
東京ヤクルトスワローズというと、どのようなイメージをお持ちになりますか?何といってもビニール傘を利用して東京音頭を歌っての応援、とお思いかもしれませんね(笑)
ビニール傘を振っての応援は、神宮球場の東京ヤクルトスワローズ戦の風物詩ともいえる光景ですよね。ところで、傘を振っての応援って結構場所をとりますよね?
ファン同士の傘がぶつかり合ったりして、危なくないのでしょうか?それとも、ぶつかるようでは修業が足りない、と言われてしまうのかな(^_^;)
今回は、東京ヤクルトスワローズの背番号3番について特集したいと思います。歴代の選手や現在の西浦選手、そして背番号3番の傾向をご紹介していきますので、楽しみにしてくださいね!
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号3番を背負った選手をご紹介
まず、東京ヤクルトスワローズの背番号3番を付けた、歴代の選手を一挙にご紹介いたします。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1950年~1952年 | 3年 | 国鉄スワローズ | 岩橋利男選手 |
1953年 | 1年 | 国鉄スワローズ | 空白 |
1954年~1960年 | 7年 | 国鉄スワローズ | 箱田弘志(箱田淳)選手 |
1961年~1967年 | 7 年 | 国鉄スワローズ・サンケイスワローズ・サンケイアトムズ | 徳武定之選手 |
1968年~1969年 | 1.5 年 | サンケイアトムズ・アトムズ | ジャクソン選手 |
1969年~1970年 | 1.5 年 | アトムズ・ヤクルトアトムズ | チャンス選手 |
1971年~1975年 | 5年 | ヤクルトアトムズ・ヤクルトスワローズ | 荒川堯選手 |
1976年~1977年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1978年~1979年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | ヒルトン選手 |
1980年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | パラーゾ選手 |
1981年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1982年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | ハーロー選手 |
1983年~1984年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | マルカーノ選手 |
1985年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1986年~1987年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | ブロハード選手 |
1988年~1992年 | 5年 | ヤクルトスワローズ | 長嶋一茂選手 |
1993年~1994年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1995年~1996年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | オマリー選手 |
1997年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1998年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | ムートン選手 |
1999年~2000年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
2001年~2007年 | 7年 | ヤクルトスワローズ・東京ヤクルトスワローズ | ラミレス選手 |
2008年 | 1年 | 東京ヤクルトスワローズ | 空白 |
2009年~2012年 | 4年 | 東京ヤクルトスワローズ | 福地寿樹選手 |
2013年 | 1年 | 東京ヤクルトスワローズ | 空白 |
2014 ~ | 東京ヤクルトスワローズ | 西浦直亨選手 |
西浦選手が本領を発揮しはじめた!
2018年現在で、東京ヤクルトスワローズの背番号3番をつけているのは、西浦直亨選手です。
西浦選手は、奈良県の天理高校時代には甲子園出場、そして法政大学へと進学するという、野球の超エリートコースを歩んできました。甲子園出場なんて程遠かった野球部にいた私にとって、西浦選手の経歴は雲のはるか上のような憧れです(^_^;)
そして東京ヤクルトスワローズに指名されると、新人時代から背番号3番を任され、絶大な期待を寄せられています。
最初の4年間はレギュラーにはなれませんでしたが、2018年には初めてレギュラーを獲得して規定打席にも達する活躍をみせました。
東京ヤクルトスワローズのショートと言えば宮本慎也さん。そんな偉大な選手に近づくには、何が必要でしょうか?西浦選手の潜在能力からみると打率が低めだったので、確実性に磨きをかけて、ステップアップを図ってほしいと願っています。
規定打席に達する事は、年間を通して試合に出たとも言え、非常に多くの経験を積んだことになったと思います。
これを機会に、同年代の山田哲人選手と共に東京ヤクルトスワローズの内野を引っ張る存在になって欲しい、そう願ってやみません!
ヤクルトスワローズの背番号3番の傾向とは?
2018年のシーズン開幕時点で、東京ヤクルトスワローズの背番号3番を背負った選手は合計17名います。東京ヤクルトスワローズにおける背番号3番は、チームの4番打者を務める外国人選手に与えられる番号といえます。
実際に、東京ヤクルトスワローズで背番号を付けた17名の内、外国人選手は7割以上の10名もいます。まるで日本人が好きではない4番のような感じです(^_^;)
ちなみに、他のセントラルリーグの球団の、歴代の背番号3番の外国人選手数を調べてみると
- 読売ジャイアンツ 0
- 中日ドラゴンズ 2人
- 阪神タイガース 1人
- 広島東洋カープ 1人
- DeNAベイスターズ 5人
となっていました。やはり、東京ヤクルトスワローズの10人というのは非常に多いですね!
個人的には、読売ジャイアンツの長嶋茂雄選手や、広島東洋カープの衣笠祥雄選手に代表されるように、背番号3番は日本人の野手がつけるというイメージなんですが(^_^;)
背番号3番をつけて活躍した3選手をご紹介
東京ヤクルトスワローズの背番号3番をつけて活躍をした外国人選手2名と、運命として背番号3番を背負った日本人選手の合計3名をピックアップし、経歴からご紹介いたしますので、是非参考にしてください。
トーマス・オマリー選手
生年月日 1960年12月25日
出身地 アメリカニュージャージー州
投/打 右/左
プロ野球歴 サンフランシスコ・ジャイアンツ(1982年~1984年)
シカゴ・ホワイトソックス(1984年)
ボルチモア・オリオールズ(1985年~1986年)
テキサス・レンジャーズ(1987年)
モントリオール・エクスポズ(1988年)
ニューヨーク・メッツ(1989年~1990年)
阪神タイガース(1991年~1994年)
ヤクルトスワローズ(1995年~1996年)
タイトル 首位打者1回、最高出塁率4回
表彰 年間MVP1回、ゴールデングラブ賞1回、ベストナイン1回
オマリー選手は、日本人に最も愛された外国人選手の1人です。小さなヘルメットを浅くかぶり打席に立つ姿が、とてもかわいく見えることから、ファンからも人気を得ました。
野球小僧であった私、頭が大きかったせいもあり、野球部に所属していた高校時代には、ヘルメットを被った姿がオマリー選手のように見えていたかもしれません(^_^;)
また、オマリー選手はお立ち台のヒーローインタビューにおいて、日本語で決まり文句を叫ぶパフォーマンスが有名です。阪神タイガースに所属していた頃の決まり文句は「阪神ファンは一番や」、ヤクルトスワローズでは「ヤクルトファンの応援ください」でした。
そのオマリー選手は、外国人選手として初めて6年連続打率3割を達成し、首位打者のタイトルも獲得するなど、打者として活躍をいたしました。
私が信じている、外国人選手が日本で活躍できるかどうかの基準として、日本に溶け込もうとしているかどうか、というのがあります。日本語を覚えて、まして阪神タイガース時代には関西弁の決まり文句を話していたオマリー選手、日本で成功出来るはずだなと思いました!
そして、変化球が多くボール球を多く投げる日本人投手に、対応できたのも、日本で成功した秘訣でしょうね。
アレックス・ラミレス選手
生年月日 1974年10月3日
出身地 ベネズエラ首都地区ミランダ州
投/打 右/右
プロ野球歴 クリーブランド・インディアンス(1998年~2000年)
ピッツバーグ・パイレーツ(2000年)
ヤクルトスワローズ(2001年~2007年)
読売ジャイアンツ(2008年~2011年)
横浜DeNAベイスターズ(2012年~2013年)
タイトル 首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回、最多安打3回
表彰 年間MVP2回、ベストナイン4回
ラミレス選手は、日本プロ野球の歴史において、最も多くの打撃部門における記録を残した選手といえます。ラミレス選手は、ファンとのコミュニケーションも大切にして大人気となり、「ラミちゃん」と愛称で呼ばれていました。
2007年には外国人選手として、さらに右打者として、史上初のシーズン200本安打を達成いたしました。なお、この年は、122打点、204安打、打率.343の記録を残し、日本プロ野球で初めて100打点、200安打、打率.300以上の「100・200・300」も達成しています。
そして、200本安打以上を達成した選手が登録される「日本プロ野球名球界」に、外国人として初めて名前を連ねました。
一方で、ラミレス選手は日本語を熱心に学び、チームメイトとも十分なコミュニケーションが取れるほどに流暢に話します。オマリー選手同様に、日本に溶け込もうと努力したラミレス選手、やはり日本で大活躍しましたね(笑)
このコミュニケーション能力の高さと指導力を買われて、2015年に横浜DeNAベイスターズの監督に就任し、チームの躍進につなげています。
長嶋一茂選手
生年月日 1966年1月26日
出身地 東京都大田区
投/打 右/右
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1988年~1992年)
読売ジャイアンツ(1993年~1996年)
タイトル 特になし
長嶋選手は、1987年のドラフト会議で、ヤクルトワローズに1位指名を受けて入団をすると、ヤクルトの外国人番号ともいえる背番号3番を付けることになります。
それは、「プロ野球界の背番号3番」と呼ばれる、ミスタープロ野球の長嶋茂雄選手の息子として、ヤクルトスワローズの背番号3番が外国人選手の番号として定着するなかでも、運命としてその番号を背負わなくてはいけなかったと言えるでしょう。
ちなみに、巨人に移籍後は、背番号3番は偉大な父の背番号であり、永久欠番でもあったため、背番号36番を付けました。
「長嶋2世」とプレッシャーが掛かるなかで、またケガやパニック症候群に悩まされながらも、背番号3番を背負って活躍をいたしました。
私が特に印象に残っているのが、プロ初打席でセンターバックスクリーンにホームランを打ったシーンです。それも父親が所属していた読売ジャイアンツ戦でした。
さすが長嶋茂雄さんの息子、モノが違う
と思わせられました(^_^;)
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まとめ
今回は、東京ヤクルトスワローズの背番号3番についてお伝えしてきましたが、いかがだったでしょうか?他の球団にない特徴として、チームの4番打者をつとめる外国人選手が、背番号3番をつけるケースが多いという事でしたね。
個人的には、日本人の野手がつけるというイメージが強いのですが、ここまで外国人選手が多いのであれば、外国人選手専用にしても良いのかなとも思います(^_^;)
今後、東京ヤクルトスワローズの背番号3番が、外国人選手に受け継がれていくのか、個人的には注目していきたいと思います(笑)
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。