こんにちは、みっつです。
中日ドラゴンズは巨人及び阪神についで、3番目に誕生した歴史の長い球団です。背番号3を付けた選手は、2018年のシーズン終了時点で16名になります。
背番号3番というと、どこの球団でも人気があり中心選手がつける傾向がありますが、中日ドラゴンズではそのような選手が歴代背番号3番をつけてきたのでしょうか?
今回は、中日ドラゴンズの背番号3番について特集していきたいと思います。歴代の背番号3番をつけた全ての選手や主な選手の紹介、中日ドラゴンズでの背番号3番の傾向といった内容をお届けしますので、楽しみにしてくださいね。
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歴代の背番号3番を背負った選手をご紹介
まず、中日ドラゴンズの背番号3番を付けた、歴代の全16選手を一挙ご紹介いたします。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1936年 | 0.5年 | 名古屋軍 | 松浦一義選手 |
1936年 | 0,5年 | 名古屋軍 | 桜井正三選手 |
1937年 | 0.5年 | 名古屋軍 | 空白 |
1937年 | 0.5年 | 名古屋軍 | 倉本信護選手 |
1938年~1940年 | 3年 | 名古屋軍 | 石田政良選手 |
1941年~1945年 | 5年 | 名古屋軍~産業軍 | 空白 |
1946年 | 1年 | 中部日本軍 | 石田政良選手 |
1947年 | 1年 | 中部日本ドラゴンズ | 藤本英雄選手 |
1948年~1954年 | 7年 | 中日ドラゴンズ ~名古屋ドラゴンズ ~中日ドラゴンズ | 国枝利通選手 |
1955年~1956年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | 内海武彦選手 |
1957年~1972年 | 16年 | 中日ドラゴンズ | 中利夫(改名:三夫)(改名:暁生)選手 |
1973年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 空白 |
1974年~1976年 | 3年 | 中日ドラゴンズ | 藤波行雄選手 |
1977年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | デービス選手 |
1978年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 空白 |
1979年~1980年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | ギャレット選手 |
1981年~1982年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | 富田勝選手 |
1983年~1987年 | 5年 | 中日ドラゴンズ | 平野謙選手 |
1988年~2009年 | 22年 | 中日ドラゴンズ | 立浪和義選手 |
2010年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 空白 |
2011年~2014年 | 4年 | 中日ドラゴンズ | 吉川大幾選手 |
2015~ | 中日ドラゴンズ | 高橋周平選手 |
背番号3番を背負って活躍した3選手をご紹介
次に、中日ドラゴンズの背番号3番と呼べる3選手をピックアップし、経歴をご紹介いたしますので、是非参考にしてください。
藤波行雄選手
生年月日 1951年4月26日
出身地 静岡県静岡市
投/打 左/左
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(1974年~1987年)
表彰 新人王
藤波選手は、1974年に中央大学からドラフト1位で中日ドラゴンズに入団、初年度から背番号3を与えられ、活躍が期待されていました。期待に応えて入団一年目で新人王を獲得する活躍をしたものの、中々レギュラーに定着することが出来ず、代打での出場が多く続きます。
1976年に、藤波選手にとって大きな出来事が起こります。藤波選手はクラウンライターライオンズ(現西武ライオンズ)へのトレードを拒否したことで、球団と対立を起こしたのです。
藤波選手は、トレードされるのであれば引退も辞さないという、強い気持ちでトレードを拒否します。そしてファンは、将来の主軸として力をつけているのにトレードは納得できないと、抗議の電話が球団事務所に殺到しました。
結局、トレードによる移籍は消滅したものの、トレードを拒否した事ががきっかけとなり、背番号は3番から40番に変更されるなどのペナルティを受けました。それでも、球団を愛する藤波選手は、トレードの騒動後の11年間を含めて14年間、中日ドラゴンズ一筋に選手生活を続けたのです。
トレード拒否は私が小学校6年生の時に起こりましたが、当時は選手が球団に反抗するような事は許されない、といった雰囲気でした。まだ小学生だったという事もあり、なぜ藤波選手の背番号が3番から40番に変わったのか、理解していませんでした(^_^;)
平野謙選手
生年月日 1955年6月20日
出身地 愛知県名古屋市
投/打 右/右・左
プロ野球歴 中日ドラゴンズ (1978年~1987年)
西武ライオンズ (1988年~1993年)
千葉ロッテマリーンズ (1994年~1996年)
タイトル 最多盗塁1回
表彰 ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞9回
平野選手は1978年に、ドラフト外の投手として中日ドラゴンズに入団をしました。しかし、学生時代に痛めた右ひじが痛む事もあり、入団2年目には野手に転向し、さらにスイッチヒッターに挑戦をした苦労人です。
その平野選手に与えられた称号といえば、「バントマン」です。入団4年目の1982年には、当時のシーズン最多となる51犠打をマークし、2番打者として定着をいたします。職人タイプの平野選手が、通算で放った451犠打は、当時の日本プロ野球記録でもありました。
その平野選手は、入団初年度こそ背番号81番でしたが、2年目には背番号57番、そして6年目に背番号3番へとジャンプアップし、西武ライオンズに移籍するまでの5年間、背番号3番を付けていました。
藤波選手との因縁が!?
ここで一つのエピソードをご紹介しますね。平野選手がピッチャーから外野手に転向した事は、すでにお伝えしました。
平野選手としては、ピッチャーとしてプロ入りしたからには、ピッチャーで活躍したいと考えていたに違いありませんよね。そんな平野選手に外野手転向を決意させたのが、1976年まで背番号3番をつけていた藤波選手なのです。
1979年春の紅白戦で、打たれないと自信を持っていたストレートを、藤波選手に打たれたのをきかっけに、外野手転向を決意したのです。もしピッチャーを続けていたなら、背番号3番をつける事はなかったでしょう。
そう考えると、元背番号3番の藤波選手が、平野選手に背番号3番をつけさせた、と言っても良いかもしれませんね(^_^;)
立浪和義選手
生年月日 1969年8月19日
出身地 大阪府
投/打 右/左
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(1988年~2009年)
タイトル 新人王、
表彰 ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回
立浪選手は高校野球の名門PL学園で主将を務めると、甲子園では春夏連覇を果たし、その年のドラフト1位で入団したエリート選手です。現役時代は「ミスター・ドラゴンズ」と呼ばれ、中日ドラゴンズの球団史上最高の左バッターと賞される選手に成長しました。
その立浪選手は、背番号3番を現役22年間に渡って背負い続けた、まさに80年を超える球団の歴史のなかで、背番号3番を代表する選手でもあります。残念ながら、打撃タイトルには縁がなかったものの、二塁打の通算本数487は、日本歴代1位の記録として残っています。
立浪選手というと、高校野球の超名門であるPL学園の出身である事はお伝えしましたよね。元高校球児である私の中では、立浪選手は高校時代から有名な存在であり、体は小さいけど必ずプロ野球で活躍すると確信していました。
期待通り、いや期待以上に活躍した立浪選手ですが、タイトルをとっていない事は意外です。首位打者の一度や二度はとっていると思っていました(笑)
中日ドラゴンズの背番号3番の選手の傾向とは?
日本プロ野球界において、背番号3番は、「ミスタープロ野球」こと長嶋選手に代表されるように、チャンスに強く、ファンを魅了するスター選手に与えられる番号です。また、出世番号の意味もあり、球団としては期待の若手選手に、背番号3番を与える傾向もあります。
中日ドラゴンズにおける背番号3番も、期待の新人に与える傾向があります。背番号3番はポジション番号でもある三塁手など、内野手が付ける傾向もありますが、中日ドラゴンズにおいては内野に限らず、期待される外野手にも多く与えられています。
ちなみに、1970年代後半の中日ドラゴンズでは、背番号3番を外国人に与える傾向がありました。これは、ライバルの巨人軍が、背番号3番の象徴である長嶋選手が監督をしていたことから、「背番号3番を重視しない意思表示」と、まことしやかな噂もあります。
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まとめ
今回は、中日ドラゴンズの背番号3番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
他の球団と同じように、中日ドラゴンズの背番号3番は、チームの中心となる野手がつけるといった傾向がありました。そして、期待の新人選手がつけるといった、中日ドラゴンズ独自の傾向もみられました。
22年間も背番号3番をつけて活躍した立浪選手のような、ミスタードラゴンズと言われるような選手が背番号3番誕生するのか、注目してみるのも面白いですね!
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。