オリックスバファローズの背番号8番!歴代8番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

オリックスバファローズは阪急ブレーブス、近鉄バファローズという歴史ある2つの球団が合併して誕生しました。

この2つの球団は共通項が多く、関西を拠点としていること、親会社が鉄道会社だということに加え、初優勝に導いた監督がいずれも西本幸雄監督であることも同じです。(阪急は1967年、近鉄は1979年)

チームカラーも当然違い、投手・野手のバランスを満遍なく揃え、相手より1点でも多く取り、そして相手より1点でも少なく抑える野球をするのが阪急ならば、3点取られたら4点取ったらいいじゃない、という豪快な野球こそが近鉄の持ち味でした。1980年に近鉄が記録したチーム本塁打数239本は未だパ・リーグ記録であるように、チームは消滅しても「いてまえ打線」の記憶は永遠に語り継がれることでしょう。

今回は、そんなオリックスバファローズの背番号8番を特集します。歴代の8番の選手や特に印象に残る3選手、さらに8番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号8番を背負った選手をご紹介

まずは、オリックスバファローズ歴代の背番号8番を着けた選手を「阪急~統合前まで」・「近鉄~統合前まで」そして「統合後」と3ブロックに分けてご紹介します。

旧阪急   
年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年~1937年秋2年阪急軍島本義文選手
1938年春~1938年秋1年阪急軍空白
1939年~1943年5年阪急軍池田久之選手
1944年~1945年2年阪急軍空白
1946年0.5年阪急軍今西錬太郎選手
1946年~1947年1.5年阪急軍~阪急ベアーズ~阪急ブレーブス坂井豊司選手
1948年~1949年2年阪急ブレーブス平井正明選手
1950年1年阪急ブレーブス川島典秋選手
1951年1年阪急ブレーブス野々村寛選手
1952年~1953年2年阪急ブレーブスジョン・ブリットン選手
1954年1年阪急ブレーブス品川光選手
1955年~1961年7年阪急ブレーブスロベルト・バルボン選手
1962年1年阪急ブレーブス木頃博巧選手
1963年~1969年7年阪急ブレーブス早瀬方禧選手
1970年1年阪急ブレーブスカル・エメリー選手
1971年~1976年6年阪急ブレーブス小松健二選手
1977年~1982年6年阪急ブレーブス島谷金二選手
1983年~1992年10年阪急ブレーブス~オリックスブレーブス~オリックスブルーウェーブ松永浩美選手
1993年~2002年10年オリックスブルーウェーブ藤井康雄選手
2003年~2004年2年オリックスブルーウェーブホセ・オーティズ選手
旧近鉄
年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年~1951年2年近鉄パールス芳村嵓夫選手
1952年~1957年6年近鉄パールス根本隆夫選手
1958年~1959年2年近鉄パールス~近鉄バファロー渡辺博之選手
1960年~1961年2年近鉄バファロー十時啓視選手
1962年1年近鉄バファローズ吉沢岳男選手
1963年~1966年4年近鉄バファローズ山本八郎選手
1967年~1969年3年近鉄バファローズ鎌田実選手
1970年~1973年4年近鉄バファローズ辻佳紀選手
1974年~1988年15年近鉄バファローズ梨田昌崇選手
1989年~1993年5年近鉄バファローズ米崎薫臣選手
1994年~2000年7年近鉄バファローズ~大阪近鉄バファローズ吉田剛選手
2001年~2004年4年大阪近鉄バファローズ磯部公一選手
統合後
年  度年 数球 団 名選 手 名
2005年1年オリックスバファローズランドール・サイモン選手
2006年1年オリックスバファローズ中村紀洋選手
2007年~2009年3年オリックスバファローズタフィ・ローズ選手
2010年1年オリックスバファローズ空白
2011年~オリックスバファローズ後藤駿太選手

まずは阪急編です。背番号8番選手の歴史18代に渡ります。

初代は島本義文選手です。捕手を務めていましたが1938年秋シーズン終了後に召集され、戦地へと赴き、その後戦死されました。東京ドーム近くにある戦没されたプロ野球関係者のお名前が刻まれた「鎮魂の碑」に島村選手のお名前も刻まれています。

2代目・池田久之選手もポジションは捕手です。池田選手も1943年シーズン終了後に召集され、翌1944年に戦死。まだ24歳という若さでした。島本選手同様、池田選手のお名前も鎮魂の碑に刻まれています。

3代目・今西錬太郎投手は元々内野手としてプロに入団した選手です。戦時中の投手不足により転向すると、入団2年目には21勝を挙げる活躍をみせました。のちに大洋ホエールズへ移籍し、球団初勝利を挙げた投手としてその名を残されています。

4代目は坂井豊司選手です。阪急在籍時は三塁手でした。一旦プロを離れ3年のブランクを経て復帰した広島カープでは二塁を守りました。

5代目は平井正明選手です。阪急入団後、すぐショートのレギュラーに定着しましたが、2リーグ分裂のドタバタに巻き込まれ西日本パイレーツへ引き抜かれます。

翌年には読売ジャイアンツが半ば強引に平井選手を獲得します。「打てるショート」の元祖と言われる選手だけに人気も高ったということなのでしょう。

6代目・川島典秋選手は1年でプロを退団した内野手です。7代目・野々村寛選手は入団時は8番だった背番号が翌年には22番、さらに41番と大きくなっていった内野手でした。

8代目・ジョン・ブリットン選手はMLBチームのオーナーから「貸し出し」という形で来日した三塁手です。1年目の1952年にはオールスターにも出場しました。

9代目・品川光選手は1年でプロから身を引いた内野手です。

10代目はロベルト・バルボン選手です。キューバ出身の二塁手で、3年連続盗塁王に輝いた選手時代もさることながら引退後に通訳としてすっかりおなじみとなった方です。バリバリの関西弁と、アバウト過ぎる通訳がファンの心をがっちり掴みました。

11代目は木頃博巧選手は内野手です。背番号38番から8番へ昇格したものの、この年限りで現役を引退しました。

12代目・早瀬方禧選手はプロ1年目から5番打者を務めた外野手です。1967年阪急悲願の初優勝にも5番ライトで貢献した左打者です。後年広島でもプレーしました。

13代目はカル・エメリー選手です。1970年に阪急入りした左打の一塁手でしたが打率.213、8本塁打と不振にあえぎ、1年で退団しました。

14代目は小松健二選手です。1970年のドラフト会議で1位指名された、強肩強打の即戦力外野手という触れ込みでしたが、プロでは守備要員の域を出ませんでした。

15代目・島谷金二選手は、阪急背番号8番の格を一気に押し上げた強打者です。元々は中日ドラゴンズの正三塁手だったのですが、1977年、交換トレードで阪急に移籍するや打率.325 22本塁打74打点と打ちまくり、シーズン後半には4番打者に君臨しました。

ドラフト指名を3度拒否し、最後はドラフト9位で入団ことでも話題となりました。

16代目は松永浩美選手、練習生から這い上がった努力の人です。プロ入り後にマスターした左打ちは長打力もあり、また盗塁王にも輝いた俊足を持つ新時代の切り込み隊長でした。

17代目は藤井康雄選手です。阪急時代を知る貴重な存在として、オリックスブルーウエーブ2連覇を主軸として支えた外野手。外野陣が充実するとファーストを守った強打の左打者でした。

そして18代目はホセ・オーティズ選手です。NPBデビューのオリックスを含め、パ・リーグ4球団でプレーした二塁手です。

打率は.280前後、20本塁打程度は安定して残す実績を買われ、ケガ人が出たチームのバックアップ要員という印象すらあったオーティズ選手。明るい性格で、どの球団のファンにも愛された選手でした。

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続きまして近鉄編です。近鉄の背番号8番は12代続きました。

初代は芳村嵓夫選手でした。中日ドラゴンズから移籍した捕手で、近鉄で2年プレーした後1年のブランクを経て東映フライヤーズで選手復帰した経歴の持ち主です。

2代目は根本隆夫選手です。西武ライオンズや福岡ダイエーホークスの監督を歴任、GM的な役割もこなし、両球団の基礎を作り上げた方です。現役時代は近鉄の捕手でした。他に広島カープの監督も務められたことがあり、山本浩二選手を見出したことでも知られています。

3代目は渡辺博之選手です。元々は大阪タイガースの5番打者でした。打点王を獲得したこともある一塁手です。現役晩年に近鉄へ移籍、2年間プレーしています。

4代目・十時啓視選手も移籍組です。元々は読売ジャイアンツの外野手で、当時監督を務めていた元巨人の名二塁手・千葉茂監督の縁で移籍となりました。

5代目・吉沢岳男選手も中日からの移籍組です。のちの300勝投手・鈴木啓示投手のプロ初登板でバッテリーを組み、散々な結果に終わった鈴木投手に「ボールを長く持て」とアドバイス。この一言で鈴木投手はフォームを矯正、コントロールを身につけるキッカケとなりました。

6代目・山本八郎選手は東映フライヤーズからの移籍選手です。東映時代は4番打者を務め人気者だった山本選手でしたが、首脳陣との確執があり近鉄へ移籍します。近鉄でも中心打者として活躍しました。

7代目・鎌田実選手は阪神タイガースから移籍した二塁手です。日本で初めてバックトスを採用した選手としても有名ですが、このプレーに周りの選手が付いてこれず、首脳陣から「バックトス禁止令」が出されたことも。近鉄で3年プレーした後、古巣阪神へ復帰しました。

8代目・辻佳紀選手も阪神タイガースから移籍した捕手です。

阪神では同時期に辻恭彦捕手という同姓の選手がいたため、口ひげを蓄えていた佳紀選手を「ヒゲ辻」、体格の良かった恭彦選手は「ダンプ」という愛称が付きました。朝の情報番組でもおなじみの顔でしたが、病で48歳という若さで亡くなられたのが残念です。

9代目は梨田昌崇選手です。有田修三選手と「あり・なしコンビ」として正捕手の座を争い続けました。こんにゃく打法という、グリップエンドを極端に下げた打法でも有名でした。

近鉄最後の優勝時に指揮官を務めたほか、2球団でも監督を務め、チームをAクラス入りさせています。

10代目の米崎薫臣選手は内野手です。ソウル五輪代表メンバーで、1988年のドラフト1位で近鉄に入団しました。しかし、真喜志康永選手らライバルが多く、好守で他を上回ることが出来ず1994年には阪神へトレードされました。

11代目は吉田剛選手です。取手二高時代はK・KコンビのいたPL学園高を破って甲子園で全国制覇を果たしました。応援歌としてファミコンゲームのメロディが使われていたことでも有名です。

そして12代目は磯部公一選手です。当時の梨田昌孝監督から「自分の後継者に」と直々に背番号変更を打診され、22番から8番へ変更となりました。しかし、スローイングの癖が抜けきらず、外野手へ転向しました。

近鉄最後の選手会長として、球団合併阻止へ向け奮闘する姿は多くのファンから熱く支持されました。

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最後は統合後に背番号8番を着けた選手を紹介しましょう。

初代はランドール・サイモン選手です。カリーム・ガルシア、クリフ・ブランボー両選手が不振のため急遽獲得した選手でしたが、わずか16試合に出場したのみに終わります。

結局、ガルシア選手らが復調し、翌年もオリックスでプレーしたのに対し、サイモン選手は1年で日本を去りました。

2代目は中村紀洋選手です。MLB・ロサンゼルス・ドジャースからNPBに復帰しました。同時入団の清原和博選手が巨人時代の5番を使用することとなったため、中村選手は8番でプレーしました。

3代目はタフィ・ローズ選手です。近鉄時代には猛打を振るったローズ選手もこの時39歳です。

NPB復帰を訝しがる声もありましたが、終わってみれば打率.291 42本塁打96打点。復帰2年目の2008年には40歳ながら40本塁打 118打点で打点王を獲得する活躍ぶりでした。

そして4代目は現役の後藤駿太選手です。高卒ルーキーながら開幕スタメンに抜擢されたり、毎年100試合以上の出場機会には恵まれているものの、成績は今一つブレイクしきれていない印象があります。




歴代背番号8番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、オリックスバファローズの背番号8番をつけた選手のうち、私が印象深く思う梨田選手、松永選手、そして磯部選手をご紹介したいと思います。

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梨田昌崇(昌孝)選手

生年月日  1953年8月4日
出身地   島根県浜田市
投/打   右/右
プロ野球歴 近鉄バファローズ(1972年~1988年)
タイトル等 ベストナイン3回・ダイヤモンドグラブ賞4回・オールスター出場6回

梨田氏の現役時代の代名詞と言えば「こんにゃく打法」です。どのようにして、独特なこんにゃく打法が生まれたのでしょうか?

実は無しだ選手は、ボールを打つ際に、グリップエンドが下がる悪癖がどうしても抜けず悩んでいました。

ある日、酒のボトルをバットに見立てあれこれと悩んでいたところ、「グリップエンドが下がるならば、最初から下げておけばそれ以上は下がることは無い」とひらめきます。

そこで、グリップエンドを最初から低く構え、更には「リラックスできるように」と肩の力を抜くべく腕をブルブルっとさせるこんにゃく打法が完成しました。

守備面では強肩を活かし、ダイヤモンドグラブ賞3回を獲得しましたが、何と言っても現役時代は有田修三選手という実力拮抗の捕手がいたためフル出場はなりませんでした。

「あり・なしコンビ」と呼ばれていましたが、当然ながら当人同士は仲が良かったわけではなく、かと言ってバチバチと表立って争うこともなく「キャッチャーが二人いるんだからしょうがない」(有田選手談)というように、淡々と自分の出場する試合をこなしていました。

強気なリードと強打の有田選手に対し、無田選手は投手が打たれるとリードが悪かったと自分を責めるタイプでした。当然のように近鉄にはトレードの申し込みが殺到したそうですが、有田選手が巨人にトレードされたのは1985年。実に13年間も併用は続いたのです。

この「ありなしコンビ」の存在はその後のプロ野球に少なからず影響を残し、それまでレギュラー捕手がどかっと構えているのが当たり前、という定説を崩し、捕手併用制を採用する球団が増えるきっかけとなりました。

1988年10月19日。対ロッテオリオンズとのダブルヘッダー第1戦。引き分けたら優勝を逃してしまうという緊迫した場面で勝ち越しタイムリーを放ち、望みを第2試合へと繋いだ874本目の安打を最後に現役引退しました。

引退後は近鉄監督に就任。就任2年目の2001年に優勝へと導きます。2008年からは北海道日本ハムファイターズ監督に就任。やはり2年目の2009年にリーグ優勝を達成しています。

そして2016年からは東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任すると、またもや就任2年目の2017年に首位を独走。このまま優勝かと思われましたが終盤失速、結局は3位に終わったものの全てのチームでAクラス入りを果たした監督手腕は高く評価されました。

近鉄監督時代には小林繁投手コーチ、真弓昭信打撃コーチ、そして梨田監督と「男前三人衆」としてポスターに登場したり、インタビューではベタベタなオヤジギャグをかましたりとファンを楽しませてくれた一面も。

2020年、猛威を振るったコロナウイルスに罹患し、一時は危険な状態だったようですが、無事回復したというニュースは多くのプロ野球ファンを安堵させました。

体調さえよければもう一度梨田監督の雄姿を見たいとファンは願っています!




松永浩美選手

生年月日  1960年9月27日
出身地   福岡県北九州市八幡東区
投/打   右/左右
プロ野球歴 
阪急ブレーブス~オリックスブレーブス~オリックスブルーウエーブ(1978年~1992年)
阪神タイガース(1993年)
福岡ダイエーホークス(1994年~1997年)
タイトル他 盗塁王1回・最高出塁率1回 
      ベストナイン5回・ゴールデングラブ賞4回・オールスター出場11回

福岡・小倉工高3年時、当時投手だった松永選手は人一倍練習をし、当然エースになれると信じていたにも関わらず控え投手に回されたことを機に野球部を辞め、学校も中退してしまいます。この一本気な性格が後々松永選手を苦しめることになるのです。

阪急はそんな松永選手に目をつけてスカウトします。1年間練習生として活動した後、球団から「福岡に帰れ」と言われた松永選手は「クビになった」とガッカリして帰郷しました。

わずかな希望を託したドラフト会議でも松永選手の名前は呼ばれず、いよいよクビだと思っていた矢先、実家を阪急のスカウトが訪れ無事に契約を交わしました。

「福岡に帰れ」というのはプロ入りに向け準備しろ、という球団の親心だったのです。何はともあれプロ入りを果たしました。当時の背番号は48番です。

プロ入り後「1軍への近道だ」とスイッチヒッターへの挑戦を勧められると練習を開始します。プロ3年目には一軍初出場を果たし73試合で打率.326を記録、本塁打も2本放ちました。

4年目の1982年、打率は.236と下がったものの12本塁打21盗塁をマークします。4番打者・島谷金二選手から背番号8番を引き継いだ1983年には打率.281 21本塁打 74打点20盗塁を残します。この頃は福本豊選手がまだ現役でしたので6番を打っていました。

1984年には打率.310で自身初となる規定打席到達での3割をクリアします。三冠王・ブーマー・ウエルズ選手の後を打つ5番打者ながら19本塁打71打点を記録し、チームの優勝に大きく貢献しました。

この年から3年連続で3割を打ち、1988年には惜しくも首位打者を逃します。この年、ロッテオリオンズ・高沢秀昭選手との激しいデッドヒートを繰り広げ、シーズン終盤のロッテ戦では徹底した敬遠攻めに遭いました。

1991年にもロッテの平井光親選手と首位打者を争い、わずか4毛差でタイトルを逃します。

1992年、土井正三監督との確執が原因で阪神タイガースへトレード。交換相手の野田浩司投手と松永選手では明らかに釣り合いが取れておらず、松永選手放出ありきのトレードと言われました。

阪神ではケガもあり不本意な成績に終わるとシーズンオフにはFA宣言を行い福岡ダイエーホークスへ移籍します。

その際「甲子園は園児の砂場」と松永選手が発言したとマスコミが大々的に取り上げましたが、松永選手本人はそんなことは一言もいっておらず、思ったことは何でも口にせずにはいられない一本気な松永選手を疎ましく思っていた球団関係者やマスコミがでっち上げた記事でした。

しかし、その記事を真に受けたファンからは脅迫めいた手紙を受け取ったり、ホークスに移籍後も心無いヤジを浴びたりしました。

それが影響したわけではないでしょうがホークス移籍2年目からは急激に成績が低下、移籍4年目の1997年にはわずか15試合の出場にとどまりホークスを退団。MLB移籍を目指しますがこちらも挫折し、引退となりました。

日本人選手として初めて1試合左右打席本塁打を達成しました。通算6回達成は日本人選手としては最多記録です。その他全打席本塁打もクリア、サイクルヒット達成は2回という成績から「史上最強のスイッチヒッター」と呼ばれています。

通算1901安打で現役を終えた松永選手。名球会入りはならずとも、永遠に語り継がれるであろう選手であることは間違いありません。




磯部公一選手

生年月日  1974年3月12日
出身地   広島県東広島市
投/打   右/左
プロ野球歴
近鉄バファローズ~大阪近鉄バファローズ(1997年~2004年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2005年~2009年)
タイトル他 ベストナイン1回・オールスター出場3回

社会人野球・三菱重工広島の主砲で捕手を務めていた磯部選手がドラフト指名されたのは1996年。この年、近鉄はドラフト1位でPL学園・前川克彦、2位で日本通運・大塚晶文両投手を指名しています。

実は磯部選手はプロ入りの際、希望球団として表明していたのは、オリックスでした。ですので、入団に難色を示されると思った当時の佐々木恭介監督は何とヘリコプターを用意し指名選手の中で真っ先に磯部選手へ会いに行きました。

その熱意が通じ、磯部選手は近鉄入団を決意。背番号は22番に決まりました。

磯部選手の打力を見込んだ佐々木監督は捕手の他外野手としても磯部選手を起用します。1年目から62試合に出場しました。プロ2年目の1998年には118試合に出場、打率.291を残し、プロ初本塁打を含む4本塁打を放ちました。

1999年には捕手を離れ、外野手として130試合に出場しますが、2000年に就任した梨田昌孝監督は磯部選手を捕手に戻すことを決断します。

この年は「6番・キャッチャー」として81試合に出場、打率.311 6本塁打33打点という好成績を収め、「打てる捕手」としてブレイクするかと思われました。

2001年、近鉄のレギュラー格捕手だった梨田監督の後継者として、期待を込めて背番号8番に変更しました。前年、わずが.109に終わった盗塁阻止率を改善すべくスローイング改善に着手しますが、思うように結果が出ず、外野手転向が決まります。

守備での不安から解き放たれた磯部選手はのびのびと打ち始め、打率.320 17本塁打95打点の大活躍をみせます。リーグ1位の得点圏打率.417を記録し、いてまえ打線の5番打者に定着、優勝にも大きく貢献しました。

しかし、ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは完全に封じ込まれ、5試合で1本のヒットも打つことは出来ませんでした。

日本シリーズの不振を、2002年から2003年までは引きずっていた感がありました。ようやく復調した2004年、あの球団合併騒動が巻き起こります。

選手会長として合併阻止活動の先頭に立ち、プレーでも皆を鼓舞するかのように好調をキープ。終わってみれば打率.310、自己最高となる26本塁打、75打点を記録しました。

球団合併が決定、分配ドラフトでオリックス入りが決まったものの、合併の際「選手の希望を優先する」という申し合わせを理由にこれを拒否します。新球団東北楽天ゴールデンイーグルスへと入団しました。

2008年に引退、コーチを経て現在は野球解説者を務めるかたわらYoutubeチャンネルを開設。ユーチューバーとしても活動しています。




背番号8番をつけた選手の傾向とは?

前述の通り、オリックスバファローズは阪急ブレーブスと近鉄バファローズが合併して出来た球団です。

今回取り上げる背番号8番の歴史もそれぞれのチームで特徴があり、阪急では島谷金二選手が日本シリーズで4番を打ち、8番のステータスを一気に押し上げたことをきっかけに松永浩美、藤井康雄両選手へと受け継がれ、主軸打者の番号となりました。

一方、近鉄では梨田昌崇(昌孝)選手が長く着用したことにより、捕手の番号というイメージが定着。その後米崎薫臣、吉田剛両内野手に受け継がれたものの、正捕手定着の願いを込められた磯部公一選手が着用、再び捕手の番号となりました。(結果として磯部選手は外野にコンバートされました)

球団統合後は、「いてまえ打線」の主軸だった中村紀洋、タフィ・ローズ両選手が着用したのち、現在では後藤駿太外野手が使用しています。

このように、今のオリックスバファローズの背番号8番は、近鉄時代の捕手の番号という流れよりは、阪急からの主力打者の証という流れを汲んでいる感があります。

後藤選手の引退はまだまだ先のことですが、ふと思ったことがあります。後藤選手が退団し、背番号8番が空き番となったとき、再び捕手の番号として戻すこともアリかなと考えます。

もちろん、その時にしかるべき選手がいることが絶対条件ではありますが、球団の歴史を汲んで番号を着けてみる、という行為を「時代遅れ」と批判することは的がやや外れているような気がします。

せっかくオリックスバファローズは2つの歴史ある球団を引き継いだのですから、時に阪急色、時に近鉄色を出すことは悪いことではありませんよね。




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おわりに

今回は、オリックスバファローズの背番号8番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

今は後藤選手が2011年から8番をつけています。若手と思っていたものの2020年シーズンでプロ10年目を迎えました。

レギュラークラスではありますが、中心選手と呼ぶには物足りない成績が続いています。節目のシーズンを飛躍のきっかけとしたいところですね。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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