こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
プロ12球団の背番号9番を背負う選手を見渡してみると、外野手が多くつけてきた傾向があります。その代表格と言えばソフトバンクの柳田選手や広島の秋山選手などの実績充分の強打者です。
今回特集する埼玉西武ライオンズの背番号9番はどのような傾向があるか、歴代の9番の全選手や特に印象深い3選手、さらに9番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきます。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号9番を背負った選手をご紹介
まずは、埼玉西武ライオンズの背番号9番をつけてきた選手をご紹介します。
初代は千頭久米夫選手です。西鉄時代の草創期を支えた内外野を守れるユーティリティプレーヤーです。
2代目は長谷川善三選手です。戦時中からプロとして活躍し、華麗な守備は「スワロー」と評されました。
3代目の河野昭修選手は、最多犠打も獲得したことのある業師と蝿取紙と呼ばれた一塁守備でチームの勝利に貢献しました。
4代目の城戸則文選手は、チームの主力選手としてパンチ力のある打撃と内野をどこでもこなす守備で活躍しました。
5代目・河野旭輝選手は、当時の日本記録であるシーズン85盗塁を記録した俊足が武器の選手で、現役最終年に西鉄でプレイしました。
6代目・荒武康博選手は、大型内野手として期待されましたがプロでは目立った成績は残せず、引退後はプロゴルファーに転身しています。
7代目は阿部良男選手です。入団1年目から中心選手として試合に出場しましたが、規定打席に到達したのは1シーズンのみにとどまりました。
8代目は藤井栄治選手です。セリーグの外野手最多連続守備機会無失策記録の保持者で、記録は阪神から西鉄移籍後も継続し820まで伸ばしました。
9代目の長谷川一夫選手は、長年オリオンズで活躍した後、ライオンズに移籍しました。引退後は長年ライオンズのスカウトとして選手を発掘しました。
10代目の大石友好選手は、捕手としてプロ1年目から実績を残しました。伊東勤選手の台頭などで出場機会が減り、中日へ移籍しました。
11代目・清家政和選手は、プロ15年でわずか1本塁打しか打てませんでしたが、引退後はコーチとして多くの名選手を育てました。
12代目・奈良原浩選手は、ゴールデングラブ賞の受賞こそないものの守備の名手として知られ、西武・日本ハムで長年活躍した選手です。
13代目は安藤真児選手です。プロ入りと同時に内野手に転向しました。台湾リーグでプレーした経歴もあります。
14代目は赤田将吾選手です。身体能力が高く、俊足や堅実なバッティングで2000年代の西武ライオンズを支えた選手の1人です。
15代目の阿部真宏選手は、近鉄・オリックスで中心選手として活躍した選手です。西武時代は守備固めなど控え内野手として戦力となりました。
16代目の大﨑雄太朗選手は、控えでの出場がメインで170cm未満の小柄な選手だったものの、パンチ力のある打撃に定評がありました。
17代目・木村文紀選手は、入団から数年投手としてプレーした後に野手に転向しました。2021年途中に日本ハムに移籍しました。
18代目・蛭間拓哉選手は、2022年のドラフト会議で1位指名を受けた選手です。
背番号9番を背負って活躍した3選手のご紹介
歴代の埼玉西武ライオンズの背番号9番の選手のうち、私が特に印象深く思う、城戸選手、奈良原選手、そして赤田選手をご紹介します。
城戸則文選手
出身地 福岡県北九州市
投/打 右/右
プロ野球歴
西鉄ライオンズ(1957年~1966年)
サンケイアトムズ~ヤクルトスワローズ(1967年~1974年)
タイトル等 オールスター出場1回
福岡・常磐高校から1957年に西鉄ライオンズに入団しました。大型内野手と期待され、ウエスタン・リーグの本塁打王と打点王も獲得しました。
入団2年はほとんど1軍出場がありませんでしたが、当時の絶対的存在の中西太選手の故障もあり3年目から三塁手として出場が増えだします。
5年目には初の規定打席到達しますが、打率.198とかなり低い数字でした。
その後徐々に打率を上げ、1964年にはキャリアハイ打率.284・12本塁打を記録しますがリーグ最多の99三振も記録し、粗さも目立つ結果となっています。
ライオンズの中心選手として10年プレーした後、当時のアトムズで8年プレーし現役引退。主に遊撃手として起用され、その後も内野をどこでもこなすユーティリティープレイヤーとスタイルを変化させていきました。
引退後はライオンズで主に守備走塁コーチを務めましたが、基本からみっちりと教え込むタイプで、内野の守備陣型や連係プレーを徹底的に教え、後にライオンズの黄金時代の礎となりました。
奈良原浩選手
出身地 埼玉県白岡市
投/打 右/右
プロ野球歴
西武ライオンズ(1991年~1997年)
日本ハムファイターズ~北海道日本ハムファイターズ(1998年~2005年)
中日ドラゴンズ(2006年)
埼玉県出身の奈良原選手ですが、高校は東京の名門・帝京高校でプレーしました。青山学院大時代にはリーグのベストナインや首位打者や大学日本代表にも選出されるなど輝かしい活躍を見せます。
1990年のドラフト会議では西武ライオンズから2位指名で入団となりました。
入団1年目から「走塁と守備でプロとして食っていける」という評価を受け、70試合に出場します。
当時のライオンズは名選手揃いで、ショートのポジションには田辺選手や松井稼頭央選手、セカンドのポジションには辻選手らがおり、絶対的なレギュラーとまではいきませんでしたが、守備固めや代走としてチームには欠かせない戦力でした。
奈良原選手と言えば何と言っても守備や小技の選手です。西武時代に辻選手と組んだ二遊間は日本一の守備力と言われ、チームメイトのデストラーデ選手からは、「MLBでも充分通用する守備力がある」とも評されました。
ファイターズに移籍後もライオンズ時代と同等かそれ以上の活躍で、長年に渡って重宝されました。
2006年シーズンで現役引退後は各球団でコーチを歴任しています。プレミア12やWBCなどの日本代表のコーチも経験しており、今後、選手育成の手腕の点でも期待されています。
赤田将吾選手
出身地 鹿児島県大崎町
投/打 右/両
プロ野球歴
西武ライオンズ~埼玉西武ライオンズ(1999年~2009年)
オリックス・バファローズ(2010年~2012年)
北海道日本ハムファイターズ(2013年~2014年)
鹿児島大崎町で生まれ育った赤田選手ですが、高校は地理的にも近い宮崎・日南学園高校でプレーしました。
高校時代は当初レギュラーではありませんでしたがシートノックを見ていたプロのスカウトの目に留まると、レギュラーを獲得し、1998年のドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受け入団しました。
なお、その年の1位指名は松坂大輔選手でした。
入団1年目から1軍出場を掴みますが、5年目まではそこまで試合出場は多くありませんでした。6年目にレギュラーを獲得すると、俊足や犠打などの小技を武器に2番打者に定着します。
8年目の2006年目には、2本塁打ながら打率.293をマークし守備や走塁だけでなく打撃でも成長を見せました。
翌年には選手会長にも就任し、さらなる活躍が期待されましたが故障によりその後出場機会を減らしてしまいます。その後、オリックス、日ハムでプレーして現役引退となりました。
赤田選手と言えば左右両打席本塁打も記録しているスイッチヒッターですが、松井稼頭央の打撃を参考に死ぬもの狂いで練習し、自分の物にしたというエピソードがあります。
背番号9番をつけた選手の傾向とは?
埼玉西武ライオンズの背番号9番を背負った選手は、全員が野手登録の選手でした。古くは内野手の選手が引き継いできましたが、近年では背番号のイメージ通り外野手の選手が使用している傾向があります。
また、使用した選手に強打者といったタイプの選手はほとんどおらず、俊足や守備の名手たちが引き継いできました。
⇒埼玉西武ライオンズの話題
他にも野球に関する話題を多数お届けしています。
⇒野球に関する話題はこちらからどうぞ
背番号別の特徴に関しての話題を提供しています。
⇒背番号別の特徴
おわりに
今回は埼玉西武ライオンズの背番号9番を特集してきましたがいかがでしたでしょうか。
古くは長谷川選手や河野選手、そして奈良原選手といった守備の名手やユーティリティ性のあるプレイヤーに引き継がれてきた背番号ですがタイトル等を獲得し後世まで名を轟かせるような選手とまではいかないようです。
今後の活躍やどんな選手に成長していくか楽しみでもあり注目です。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。