こんにちは、みっつです。
7というと、最も人気のある数字の一つですね。プロ野球でも背番号7番は人気や実力のある選手がつける番号となります。
小学校5年生から野球を始めた元高校球児の私が、最も印象に残っている巨人の背番号7番というと、柴田勲選手です。
なぜ柴田選手が印象に残っているかと言いますと、打席に入る際につける赤い手袋のせいなのです(^_^;)私が最初に柴田選手を知ったのが小学校5年生の時です。
『男が赤い手袋をつけるなんて変だ!目立ちたいだけだ!』
などと思ったものです(^_^;)今となって思えば、プロの選手なので目立った方が良いのですが(笑)
今回は、巨人の背番号7番について特集します。歴代の背番号7番をつけた全12選手と、背番号7番を背負って活躍した3選手の経歴をご紹介しますので、楽しみにしてくださいね!
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歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介
日本のプロ野球の球団で、最も歴史がある巨人、2019年のシーズン開幕を迎える時点で、巨人の背番号7番を背負った選手は、合計で12名になります。その巨人の背番号7番を付けた、歴代の12選手を一挙にご紹しますね。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1935年 | 1年 | 大日本東京野球倶楽部 | 空白 |
1936年~1937年 | 2年 | 東京巨人軍 | 筒井修選手 |
1938年~1940年 | 3年 | 東京巨人軍 | 空白 |
1941年 | 1年 | 東京巨人軍 | 筒井修選手 |
1942年~1945年 | 4年 | 東京巨人軍 | 空白 |
1946年~1951年 | 5.5年 | 東京巨人軍~読売ジャイアンツ | 山川喜作選手 (改名:山川武範選手) |
1951年~1960年 | 9.5年 | 読売ジャイアンツ | 与那嶺要選手 |
1961年~1962年 | 2年 | 読売ジャイアンツ | 高林恒夫選手 |
1963年~1968年 | 6年 | 読売ジャイアンツ | 大橋勲選手 (改名:大橋敬造選手)(改名:大橋勲選手) |
1969年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 桑田武選手 |
1970年~1981年 | 12年 | 読売ジャイアンツ | 柴田勲選手 |
1982年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
1983年~1984年 | 2年 | 読売ジャイアンツ | レジー・スミス選手 |
1985年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
1986年~1998年 | 13年 | 読売ジャイアンツ | 吉村禎章選手 |
1999年~2008年 | 10年 | 読売ジャイアンツ | 二岡智宏選手 |
2009年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
2010年~2018年 | 9年 | 読売ジャイアンツ | 長野久義選手 |
2019年~2022年 | 4年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
2023年~ | 読売ジャイアンツ | 長野久義選手 |
短い期間の選手もいますが、10年前後つけている選手が5人もいるのが特徴ですね。そして外国人選手がレジー・スミス選手1人だけというのも、特徴的かなと思います。
背番号7番をつけて活躍した3選手
次に、これぞ巨人の背番号7番と呼べる3名をピックアップし、経歴をご紹介しますので、是非参考にしてくださいね。
柴田勲選手
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生年月日 1944年2月8日
出身地 神奈川県横浜市
投/打 右/右・左
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1962年~1981年)
タイトル 盗塁王6回
表彰 ダイヤモンドグラブ賞5回
最初にご紹介するのは私のイチオシ?、赤い手袋の柴田選手となります。1962年に入団した柴田選手は、巨人のV9時代に、リードオフマンとして活躍をした、V9戦士と呼ばれる選手の1人です。
本来、柴田選手は投手として入団をしましたが、当時の川上哲治監督に、足と野球センスを生かすために、1年目から両左右で打てるスイッチヒッターに転向いたします。
入団1年目の1962年には、ピッチャーとして開幕一軍入りを果たしますが、成績がパッとせずに野手へ転向をします。本来は右打ちでしたが左打ちにも挑戦して、日本人初のスイッチヒッターとなりました。
右打席では長打力もあり、本塁打も量産する一方で、後から作られた左打席では、バットを短く持ちミート打法に徹しました。こうして、日本プロ野球界で最初のスイッチヒッターとして、通算2018本安打の記録を残しました。
また、赤い手袋がトレードマークの柴田選手は、「巨人の韋駄天」とも呼ばれました。その柴田選手は、入団当時に付けていた背番号12よりも、入団9年目から付けた背番号7のイメージが強く残っています。
ピッチャーとして入団した柴田選手、高校卒業した1年目の開幕から一軍入りをするなど、かなり順調なプロ野球生活かなと思いますよね。でも、その年にはピッチャー失格として野手に転向させられた。
高校卒業だし、普通なら数年間はジックリと育てよう、みたいな感じかと思うけど、成績がパッとしなかったからとアッという間に手のひらを返されてしまいましたね(^_^;)
でも、その手のひら返しが柴田選手の野手としての大活躍を生み出し、盗塁王6回やダイヤモンドグラブ賞5回、そして名球会入りも果たす大選手に育てたと言っても良いかもしれません。
柴田選手のプロ野球生活、いや、人生の中でも最大のターニングポイントかなと思います。人生ってどこでどう変わるかわからないものです(^_^;)
柴田選手が活躍していた時代に、青い手袋をつけて活躍したのが高田繁選手でした。高田選手がつけていた背番号8番についても特集していますので、よろしければご覧になってくださいね。
⇒巨人の背番号8番!歴代の8番の全選手とその傾向をご紹介!
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吉村禎章選手
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生年月日 1963年4月27日
出身地 奈良県御所市
投/打 左/左
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1982年~1998年)
表彰 ベストナイン2回
次にご紹介するのが、私と同年代の吉村選手です。吉村選手は高校野球の名門PL学園の時から大活躍をして全国制覇をするなど、野球ファンにはプロ入り前から全国的に知られていた選手です。
天才的なバッティングは超高校級ともいえ、高校生としてはトップの技術だったように思います。同じ左バッターであった私とピンキリで例えれば、吉村選手はピン、私はキリといった感じですね(^_^;)
その才能が高く評価されて、1982年にドラフト3位で巨人に入団をしました。入団2年目には、3打席連続本塁打を放つなど、持ち前の長打力で頭角を現します。
当時は背番号55番であった吉村選手ですが、同僚の背番号50番の駒田選手と、背番号54番の槙原選手と3人が活躍をしたことから、巨人の「50番トリオ」として話題になりました。
その吉村選手は、1986年から背番号7に格上げされると、レギュラーとして定着をします。しかし、その2年後の1988年7月に、試合中の守備で左膝4本の靱帯のうち3本が完全に断裂し、さらに神経まで損傷する大ケガを負いました。
私はテレビ放送でアクシデントを見ましたが、センターの選手とは接触というよりも激突といった方が正しい表現でした。激突して倒れ込んでいる姿は、今でも脳裏に焼き付いています。
靱帯断裂は障害者の認定をされるケースがある程で、当時の日本の医療レベルでは手に負えなかったという事からも、いかに重症だったかがわかります。
治療のために渡米するなど長い療養生活を余儀なくされますが、不屈の精神でおよそ1年2ヵ月後に試合に復帰を果たします。しかし、その後はレギュラーとして活躍するのは難しく、代打要員として現役を続けることになりました。
こうした後遺症が残るほどの大ケガに見舞われた吉村選手は、「悲運の天才打者」と呼ばれています。私は間違いなく2000本安打を達成して名球会入りを果たすと思っていたのですが、本当に残念なアクシデントでした。
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与那嶺要選手
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生年月日 1925年6月24日
出身地 アメリカ ハワイ州
投/打 左/左
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1951年~1960年)
中日ドラゴンズ(1961年~1962年)
タイトル 首位打者3回
表彰 年間MVP1回、ベストナイン7回
最後にご紹介するのは与那嶺選手です。私が野球に興味を持ち始めた小学校5年生の時には、与那嶺選手は中日ドラゴンズの監督をされていて、現役時代の与那嶺選手は全く知りません(^_^;)
しかし、巨人の選手時代の与那嶺選手の活躍は、首位打者に3度も輝くなど目覚ましいものがあったので、3番めにご紹介したいと思います。
与那嶺選手はハワイ出身の日系人選手として、1951年のシーズン途中に来日しました。与那嶺選手は、日本プロ野球界にメジャー流のプレーを持ち込んだ選手と、語り継がれています。
当時では珍しい、片手を離してバット振り切る、ダイナミックなスイングが特徴でした。また、アグレッシブな走塁で、当時の日本プロ野球界に革命を起こした選手です。
打撃の神様と呼ばれた、同僚の川上哲治選手と、毎年のように首位打者争いを演じ、3回のタイトルに輝きました。
与那嶺選手は、ウォーリーという愛称で親しまれてきました。でも私はウォーリーと聞くと、ウォーリーをさがせ!を思い出してしまいます(^_^;)
巨人の背番号7番の傾向とは?
2019年のシーズン開幕を迎える時点で、巨人の背番号7番を背負った選手は、合計で12名になります。
「ラッキー7」という言葉からも、数字の「7」は人から好まれる数字です。チームも背番号7番をつけた選手に、リードオフマンとした役割を期待し、勝利に導いて欲しいと願います。
そのことから、打線に勢いをつける1番バッターや、チャンスに打順が回ってくる3番バッターがプロ野球で背番号7番をつける傾向になります。
巨人でも背番号7番は、チームのリードオフマンと呼べる選手や3番バッターがふさわしい選手がつけてきたという傾向があります。
すでにご紹介しましたが、巨人の背番号7番は、長く背負う選手が多く、選手に定着をする番号でもあります。しかし、その一方で、巨人の背番号7はアンラッキー番号とも言われています。
これまで巨人の背番号7を背負った選手12人のなかで、他球団にトレードに出された選手は6人もいます。また、野球生命を絶たれるような大きなケガをした選手が2名、さらには暴力事件などを起こした選手が2名もいるからです。
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