こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
現在の北海道日本ハムファイターズ背番号6番は、言わずと知れた中田翔選手です。大阪桐蔭高校時代には投打の二刀流として注目を集め、肩の故障で投手は断念するものの、4番打者として高校通算87本塁打を記録し、平成の怪物と呼ばれました。
ドラフト会議では4球団競合の末、ファイターズに入団。プロでも持ち前の強打は変わらず、打点王を2回獲得するなどファイターズだけでなく、日本代表チームの4番を務める強打者となったことは皆さんご存知の通りです。
今回は2019年現代、中田選手が背負うファイターズ背番号6番についてまとめてみました。どうぞ最後までお付き合いください!
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歴代の背番号6番を背負った選手をご紹介
北海道日本ハムファイターズの背番号6番をつけた選手は、前身球団を含めて16名います。まずは、16名全員を古い順からご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1946年 | 1年 | セネターズ | 大木 董四郎選手 |
1947年 | 1年 | 東急フライヤーズ | 高野 力男選手 |
1948年~1952年 | 5年 | 東急フライヤーズ | 皆川定之選手 |
1953年~1957年 | 5年 | 東急フライヤーズ | 神谷定男選手 |
1958年 | 1年 | 東映フライヤーズ | 前川忠男選手 |
1959年 | 1年 | 東映フライヤーズ | 空白 |
1960年~1961年 | 2年 | 東映フライヤーズ | エディ武井選手 |
1962年~1964年 | 3年 | 東映フライヤーズ | 堺一也選手 |
1965年~1969年 | 5年 | 東映フライヤーズ | 青野修三選手 |
1970年~1974年 | 5年 | 東映フライヤーズ | 八重沢憲一選手 |
1975年~1977年 | 3年 | 日本ハムファイターズ | 小田義人選手 |
1978年~1985年 | 8年 | 日本ハムファイターズ | 柏原純一選手 |
1986年~1987年 | 2年 | 日本ハムファイターズ | パットナム選手 |
1988年~1989年 | 2年 | 日本ハムファイターズ | イースラー選手 |
1990年 | 1年 | 日本ハムファイターズ | 空白 |
1991年~2007年 | 17年 | 日本ハムファイターズ | 田中幸雄選手 |
2008年~2021年 | 14年 | 北海道日本ハムファイターズ | 中田翔選手 |
2022年~ | 北海道日本ハムファイターズ | アリスメンディ・アルカンタラ選手 |
中田選手は現在一塁を守っていますが、かつては外野手(主に左翼手)を務めたこともあります。2013年には外野手としてベストナインに選出されました。
歴代背番号6番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、背番号6番をつけてプレーした選手の中から、特に印象深い3名の選手を選んで紹介します。
田中幸雄選手
出身地 宮崎県都城市
投/打 右/右
プロ野球歴 日本ハムファイターズ(1986年~2007年)
タイトル 打点王1回
表彰 ベストナイン4回・ゴールデングラブ賞5回
宮崎・都城高時代から強肩強打の遊撃手として注目を集めていた田中選手。田中選手の一学年上に南海ホークスにドラフト1位指名された田口竜二投手がいたこともあり、早くからホークスをはじめプロ球団がマークする存在でした。
1985年のドラフト会議でファイターズから3位指名を受けて入団。西武ライオンズも田中選手を狙っており、指名できなかったことを大変悔しがりました。
ちなみに、同年のドラフト会議と言えば、PL学園のKKコンビが指名された年で西武1位は清原和博選手です。清原・田中両選手がもし西武入りしていたら・・・と思うと西武の黄金時代はどれだけ続いていたのだろうとちょっと怖くなります。
入団2年目には高田繁監督の若手起用方針により、遊撃手のレギュラーに大抜擢され112試合に出場。打率は2割そこそこ、守備でもエラーが目立ちますが辛抱強く起用され続け、ついには名手の証であるゴールデングラブ賞を獲得するまでに成長しました。
打撃ではプロ3年目にして早くも16本塁打を記録するなど強打を誇っていた田中選手。背番号を37から「6」に変更した1991年には全試合出場を果たすなどファイターズの中心打者として押しも押されもせぬ存在となりました。
しかし、1992年に肩を故障、ほぼ1年を棒に振ってしまいます
故障の癒えた1993年からは体への負担を考え外野手へ転向。翌1994年には27本塁打 87打点を記録し見事復活を遂げます。さらに1995年には自身初の4番打者を務め、80打点ながら打点王を獲得します。
この年、オリックス・ブルーウェーブに所属していたイチロー選手も田中選手と共に打点王を獲得。本塁打王は数本差で逃し、あわよくばイチロー選手が三冠王になるかもと注目を集めたシーズンでもありました。
1995年には肘を痛め、このケガは引退まで完治しなかったという田中選手。この年以降はケガを抱えながらの出場となりますが、毎年コンスタントに20本塁打近くを打ち続け、チームを支え続けます。
2004年、ファイターズ北海道移転の頃にはレギュラーから外れますが、それでも腐ることなくチームメイトを鼓舞し続け、また自身も2000本安打という目標に向き合って現役を続けます。
2006年、ファイターズ日本一達成の際に胴上げされたことが、田中選手に対するチームメイトの想いが集まった瞬間でした。
2007年、悲願の2000本安打を達成し現役引退。22年間、ファイターズ一筋でチームに貢献し続けた田中選手を、ファンは「ミスターファイターズ」と称えました。
プロ入りした当時、ファイターズには「田中幸雄」という全くの同姓同名選手がいました。先輩の「田中幸雄」さんは投手、ルーキーの田中選手は内野手とポジションは違えども紛らわしいことは事実です。
スコアボードの表記は投手が「田中幸」、内野手は「田中雄」と区別されましたが、チームメイトは呼び方に困りました。そこで身長190センチだった田中投手を「オオユキ」、184センチの田中内野手を「コユキ」と呼ぶことにしましたが、年下に「コユキ」さんと呼ばれることに抵抗を感じていたそうです。
引退する頃にはだれも「コユキ」ではなく、親しみと尊敬の念を込めて「ユキオさん」と呼んでいました。
柏原純一選手
出身地 熊本県八代市
投/打 右/右
プロ野球歴
南海ホークス(1971~1977年)
日本ハムファイターズ(1978年~1985年)
阪神タイガース(1986年~1988年)
タイトル 特になし
熊本・八代東高校からドラフト8位でホークスに入団した柏原選手。下位指名ながら入団3年目には1軍初出場、6年目の1976年にはレギュラーに定着。ホークスの主力打者へと成長しました。しかし、翌1977年、当時の野村克也監督解任騒動で球団と衝突、ファイターズへ放出されてしまいます。
そんなバタバタを経て移籍した柏原選手ですが、ファイターズでも主力打者を務めます。移籍4年目の1981年には「選手会長・キャプテン・4番打者」という重責を背負いながらチームを引っ張り、見事リーグ優勝へと導きました。
その1981年には柏原選手の名を有名にしたある出来事が起こります。
7月19日、対西武ライオンズ戦。永射保投手が投げた敬遠球を大根切りで打った柏原選手の打球は何とスタンドイン。NPB史上初の「敬遠球を本塁打」した打者となりました。
このプレーは後にプロ野球好プレー珍プレーでも繰り返し取り上げられましたので覚えている方も多いしょう。そして、柏原選手と敬遠球の縁には続きがあったのです。
1999年6月12日、甲子園球場で行われた伝統の阪神巨人戦。当時阪神の新庄剛志選手が槙原寛己投手の敬遠球を打ち、サヨナラヒットにしたという試合がありました。これも有名なシーンですがこの時、阪神打撃コーチとして新庄選手と敬遠球を打つ練習を指導していたのが柏原選手だったのです。
現在は申告敬遠制になり、敬遠のボールを打つことは出来なくなりました。もう二度と柏原選手のような本塁打を放つ選手が現れるどころか、そのチャンスすらないというのはちょっと寂しいですね。
マイク・イースラー選手
出身地 アメリカオハイオ州
投/打 右/左
プロ野球歴 日本ハムファイターズ(1988年~1989年)
タイトル 特になし
1988年、ブリューワ・デイエット両選手がケガで戦線離脱したことにより、急遽ファイターズ入りすることとなったイースラー選手。来日2年前の1986年にはニューヨーク・ヤンキースで146試合に出場、打率.302 14本塁打 78打点。MLB通算14年で打率.293を記録しているれっきとしたメジャーリーガーでした。
来日時は37歳ということもあり、あまり期待はされていませんでしたが、5月19日の日本デビュー戦でいきなり本塁打を放つなど、終わってみれば打率.304 19本塁打 58打点の活躍ぶり。ファイターズの4番としてチームをAクラスに押し上げました。
翌1989年はケガが相次ぎ、シーズン途中で退団しますが、それでも45試合に出場で打率.293を残しているあたりはさすがの一言です。
そんなイースラー選手のバッティングフォームはかなり個性的で、当時のプロ野球ファンは注目し、マネをする人も続出しました。
構えは外国人選手によく見られるクラウチングフォームなのですが、スイングは極端なまでのアッパー、フォロースルーではバットを真上に挙げるという、まるでゴルフスイングのようなフォームだったのです。
お笑い芸人の360°モンキーズさんがテレビ番組でネタのオチとしてイースラー選手のマネをしていましたが、あながち大げさではないこと、そして、イースラー選手は決してネタ選手ではない、素晴らしい実績をMLB・NPBで残されているということを書き記しておきたいと思い、イースラー選手を紹介しました。
背番号6番をつけた選手の傾向とは?
北海道日本ハムファイターズの背番号6番をつけてきた選手には、はっきりとした傾向があります。それは、ほぼ内野手に受け継がれてきたという事です。
初代の大木選手と2代目の高野選手は外野手でしたが、3代目の皆川選手から全て内野手がつけてきていました。球団名が「日本ハムファイターズ」となった1974年以降の選手を見てみると、八重沢憲一選手は二塁・遊撃、小田義人選手は一塁、柏原選手は一・三塁です。
続くパットナム、イースラー両選手は打力を期待されて指名打者を務めることもありましたが基本的には一塁手、田中選手は遊撃手のち外野から最後は一塁手。現在の中田選手も一塁手を務めています。
そして田中選手がつけた事により、にっぽ日本ハムファイターズの6番は、チームの顔ともいうべき選手がつける番号となっています。
北海道日本ハムファイターズに関しての話題はこちらからどうぞ。
⇒日本ハムファイターズの話題
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背番号別の特徴に関しての話題を提供しています。
⇒背番号別の特徴
おわりに
今回は、北海道日本ハムファイターズの背番号6番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?ほぼ内野手がつけてきた番号である事がわかりましたね。
田中選手の功績により、仮に中田選手が引退やFA移籍することになった場合、そう易々とは番号を引き継ぐことは難しいと思われるファイターズの6番。この番号を引き継ぐには「強打」・「内野手」そして「チームリーダー」となりうる選手でなければ応しくありませんよね。
これからも、北海道日本ハムファイターズの背番号6番をつける選手は、チームにとって特別な存在である、という伝統を作っていって欲しいものです。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。