阪神タイガースの背番号8番!歴代の8番の選手とその傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、みっつです。

プロ野球界には様々な記録があります。

そんな中に「新人左打者最多本塁打記録」、「左打者の新人から3年連続20本塁打達成者」というありそうで無かった記録を持つ選手がいます。

その選手が阪神タイガースの佐藤輝明選手です。今回はその佐藤選手の阪神タイガース背番号8番の特集です。

歴代の8番の全選手や特に印象深い3選手、さらに8番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきたいと思います。




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歴代の背番号8番を背負った選手をご紹介

まず、阪神タイガースの背番号8番をつけてきた選手をご紹介します。

年 度年 数球 団 名選 手 名
1936年~1938年3年大阪タイガース山口政信
1939年~1941年3年大阪タイガース~阪神軍空白
1942年~1943年2年阪神軍山口政信
1944年~1945年2年阪神軍空白
1946年1年大阪タイガース高山泰夫
1946年途中~1947年2年大阪タイガース山口政信
1948年~1949年2年大阪タイガース後藤次男
1950年~1952年3年大阪タイガース干場一夫
1953年~1957年5年大阪タイガース大崎三男
1958年~1961年4年大阪タイガース~阪神タイガース遠井吾郎
1962年~1963年2年阪神タイガース福塚勝哉
1964年~1967年4年阪神タイガース山内一弘
1968年1年阪神タイガース空白
1969年~1970年2年阪神タイガース西村公一
1971年~1975年5年阪神タイガース佐藤正治
1976年~1980年5年阪神タイガース島野育夫
1981年~1982年2年阪神タイガース加藤博一
1983年1年阪神タイガース空白
1984年~1986年3年阪神タイガース吉竹春樹
1987年~1991年5年阪神タイガース田尾安志
1992年~1997年6年阪神タイガース久慈照嘉
1998年1年阪神タイガース本西厚博
1999年~2000年2年阪神タイガース佐々木誠
2001年1年阪神タイガース沖原佳典
2002年~2006年5年阪神タイガース片岡篤史
2007年~2012年6年阪神タイガース浅井良
2013年~2020年8年阪神タイガース福留孝介
2021年~阪神タイガース佐藤輝明

初代は山口政信選手です。空白の期間がありますが、1936年から1938年、1941年から1943年、1946年途中から1947年と3度にわたり8番をつけました。職業野球時代のプロ野球黎明期を支えた選手です。

2代目は高山泰夫選手です。戦後プロ野球の再開に伴い背番号8番を背負いましたが、先代の山口選手の復帰により背番号を変更しました。

3代目の後藤次男選手は、現役時代は最多安打も獲得したアベレージヒッターでした。引退後は阪神の監督も務めました。

4代目の干場一夫選手は、新人時代から10勝をあげた投手ですが、肩の故障でわずか3年の現役生活に終わりました。

5代目・大崎三男選手は、1950年代半ばにエース格として2年連続20勝をあげたコントロールの非常に良い投手です。

6代目・遠井吾郎選手は、阪神一筋で20年プレーし長年活躍した選手です。長嶋茂雄選手と首位打者を争ったシーズンもありました。

7代目は福塚勝哉選手です。主に控えの捕手でしたが、オリオンズ・タイガース・ブレーブスの3球団で活躍しました。

8代目は山内一弘選手です。オリオンズ時代に「打撃の職人」と呼ばれ数々の打撃タイトルを獲得した大打者です。川上哲治選手に次ぐ2000本安打も達成した選手です。

9代目の西村公一選手は、大型内野手として期待された選手でしたが思うような結果は残せませんでした。引退後はプロゴルファーに転身しました。

10代目の佐藤正治選手は、俊足で鳴らした選手です。レギュラーまでは届かなかったものの、代打、代走、守備固めと幅広く活躍しました。

11代目・島野育夫選手は、現役18年で長年活躍した外野手です。引退後、阪神や中日で長年コーチをしていたことでも親しまれています。

12代目・加藤博一選手は、俊足のスイッチヒッターです。大洋時代には「スーパーカートリオ」として活躍しました。

13代目は吉竹春樹選手です。巧打の外野手として活躍しました。引退後はタイガースのコーチも務めました。

14代目は田尾安志選手です。中日時代は3年連続最多安打を獲得するなど俊足巧打の外野手として活躍しました。楽天の初代監督も務めています。

15代目の久慈照嘉選手は、「平成の牛若丸」の異名を持ち高い内野の守備力で活躍しました。

16代目の本西厚博選手は、阪急・オリックスで活躍した外野手です。トレードで入団した阪神では1年半の在籍でした。

17代目・佐々木誠選手は、南海や西武時代に首位打者や盗塁王のタイトルを獲得した俊足巧打の外野手です。現役の晩年に阪神に在籍しました。

18代目・沖原佳典選手は、当時の野村克也監督のもとF1セブンの一員として知られました。楽天でも野村監督のもとでプレーしました。

19代目は片岡篤史選手です。ファイターズ時代にビッグバン打線の中心打者として活躍しました。移籍した阪神でも粘り強い打撃で活躍しました。

20代目は浅井良選手です。東京六大学で活躍し、自由枠で阪神に入団しました。サブでの出場がメインの選手でしたが、10年以上に渡ってプレーしました。

21代目の福留孝介選手は、日米で長年活躍し数々の好成績を残してきました。

22代目の佐藤輝明選手は、大型外野手として大学時代から注目を集めていました。4球団競合の末に阪神に入団しました。




背番号8番を背負って活躍した3選手のご紹介

次に、歴代の阪神タイガースの背番号8番の選手のうち、私が特に印象深く思う、遠井選手、久慈選手、そして福留選手をご紹介したいと思います。

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遠井吾郎選手

生年月日 1939年12月4日
出身地 山口県平生町
投/打 左/左
プロ野球歴
大阪タイガース~阪神タイガース(1958年~1977年)
タイトル等 オールスター出場3回

遠井選手は阪神一筋で20年間活躍した選手です。

山口・柳井高校時代には甲子園でも活躍し、早稲田大、八幡製鉄、タイガースと大学・社会人・プロの争奪戦になります。結果的にタイガースへの入団を決意し、超高校級の打力と評価で「ポスト藤村富美男」として期待されました。

入団1年目こそ9試合の出場にとどまったものの、2年目以降はコンスタントに試合出場し、6年目頃からレギュラーを獲得しただけでなくクリーンナップとしても活躍しました。

中でも1966年にはシーズン中盤まで長嶋茂雄選手と首位打者争いをし、故障によりタイトル争いから脱落しますが、リーグ2位の打率.326を記録しました。

また、翌1967年にはリーグ2位の151安打を放ち、打率.309の好成績を残しました。

その後もチームの中心選手として10年以上に渡って活躍を見せました。引退後はタイガースの打撃コーチを3年間務めましたが、不調に陥った掛布雅之選手の指導をしたエピソードなどもあります。

長らく阪神タイガースに在籍していただけあり、田淵選手、江夏選手、藤田平選手などレジェンドクラスの選手とも親交がありました。

阪神一筋で実働は20年に及び、これは2012年に桧山が21年に更新するまで長らく球団最長記録でした。

久慈照嘉選手

生年月日 1969年4月19日
出身地 山梨県甲府市
投/打 右/左
プロ野球歴
阪神タイガース(1992年~1997年)
中日ドラゴンズ(1998年~2002年)
阪神タイガース(2003年~2005年)
タイトル等 新人王、オールスター出場4回

久慈選手は山梨県出身で、東海大甲府高校時代には3年連続で夏の甲子園に出場しました。「東の久慈、西の立浪」と言われ、守備力には定評がありました。

高校卒業後は社会人野球の日本石油でプレイし、さらに実力に磨きをかけます。1991年のドラフト会議では阪神から2位指名を受け入団、背番号は8番となりました。

プロでは1年目から堅実な守備と勝負強い打撃でレギュラー獲得します。オールスターも遊撃手部門で選出され、最終成績は打率.245、0本塁打という成績ながら守備や小技の活躍から新人王に選出されました。

2年目以降もショートのレギュラーをしっかりキープします。本塁打こそ少ないものの、打率は年々上昇傾向にあり、5年目の1996年にはシーズン140安打を放ち、打率も.278とキャリアハイの成績を残しました。

そんな活躍を見せていた久慈選手ですが1997年オフに急遽トレードで中日に移籍することとなります。

その背景には中日がショートを欲していたこともありますが、肩力の弱さが目立つ久慈選手に代えて今岡誠選手をショートとして育成するチームの方針がありました。

中日移籍1年目は阪神時代と変わらぬ活躍に加え最多犠打も獲得。2年目は規定打席には到達しなかったものの打率3割も記録しました。

しかし荒木選手、井端選手の台頭により出場機会が減少し、自由契約の後、2003年からは阪神に復帰します。

復帰後の阪神では3年プレイしましたが全盛期ほどの活躍はできず、コーチへの就任を打診されますが現役にこだわり、自由契約となりますが獲得球団はなく現役引退となりました。

小柄な選手でしたが「平成の牛若丸」と呼ばれるほど華麗で堅い守備が持ち味の選手でした。

福留孝介選手

生年月日 1977年4月26日
出身地 鹿児島県大崎町
投/打 右/左
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1999年~2007年)
シカゴ・カブス(2008年~2011年)
クリーブランド・インディアンス(2011年)
シカゴ・ホワイトソックス(2012年)
阪神タイガース(2013年~2020年)
中日ドラゴンズ(2021年~2022年)
タイトル等 首位打者2回・最高出塁率3回
最優秀選手1回・ベストナイン4回・ゴールデングラブ賞5回・オールスター出場4回

福留選手は中日・阪神で活躍した球史に残る大打者です。

鹿児島県出身の福留選手ですが、少年時代に見た中日キャンプから立浪選手に憧れ、立浪選手がプレイしたPL学園・中日でプレーすることを志すようになりました。

そんな夢を叶えるように、PL学園高校に入学し、中心選手として高校球界屈指の打者に成長します。1995年のドラフト会議では7球団による抽選の末に近鉄が交渉権を獲得しますが、入団を辞退し日本生命へ進みました。

社会人時代にも1年目からオリンピック日本代表に選出されるなどの活躍を見せると入社3年目の1998年のドラフト会議では立浪選手のいる中日を逆指名し、入団することとなりました。

プロでは1年目から中心選手として活躍を見せます。中日在籍の9年間では、9年連続の2桁本塁打に4度の打率3割越えで2度の首位打者を獲得するなど、何度も3冠王も狙えるような好成績を残しました。

そして2008年からはFA移籍によりメジャーに挑戦します。カブス時代にはレギュラーとして中日時代ほどではないものの、まずまずの好成績を残しています。

日本球界復帰を模索していた中、阪神と入団合意し、背番号は8番となりました。

阪神時代は1年目こそ期待を裏切る結果となったものの、2015年シーズンには2006年以来となるシーズン20本塁打でチームトップクラスの打撃成績を残しゴールデングラブ賞も受賞しました。

2016年シーズンには39歳にしてサイクルヒットだけでなく、打率3割も記録し衰えを感じさせぬ活躍を見せました。以降、次第に成績は落としますが、球界最年長野手として活躍しました。

そして2022年シーズンを持って現役引退となりますが、最後に着ていたは中日ドラゴンズのユニフォームでした。

NPB単独では2000本安打にわずかに届かなかったものの、日米通算では2450安打と、球史に残る成績を残しました。このように打撃面での印象が強い選手ですが、40歳を超えても外野守備のできる守備力や強肩も持ち味の選手でした。




背番号8番をつけた選手の傾向とは?

阪神タイガースの背番号8番つけてきた選手は、そのイメージどおり野手、特に外野手の選手が多い傾向があります。レジェンド・山内選手が背番号8番を使用してからその傾向が強まったようです。

過去には田尾選手、佐々木選手など俊足巧打の選手が背負ってきましたが、片岡選手以降は福留選手、佐藤輝明選手などパンチ力のある選手が使用しています。

また、他球団で実績をあげた選手が阪神に移籍した際に多く使用している傾向がありました。

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おわりに

今回は阪神タイガースの背番号8番を特集してきましたがいかがだったでしょうか。外野手がつけてきた傾向にある事がわかりましたね。

今後も阪神タイガースの背番号8番は、チームを引っ張るような外野手がつけていくことでしょう。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。