西武ライオンズの背番号7番!その意味と歴代の7番の全選手をご紹介

背番号の意味

こんにちは、みっつです。

埼玉西武ライオンズというと、どのようなイメージをお持ちでしょうか?パ・リーグの強豪チームというイメージかもしれませんね。今でこそ埼玉県に本拠地を置き地域に密着していますが、全身の球団は福岡などに本拠地を置き、伝統のあるチームでもあります。

今回は、歴代球団も含めて、西武ライオンズの背番号7番について特集したいと思います。その意味と歴代の7番の選手を全てご紹介しますので、楽しみにしていてくださいね。

ご注意
ご紹介する内容は、筆者の思いや推測が含まれています。また正確さを保証している訳ではありませんので、御理解の上お読みください。

■目次(クリックすると飛びます)

西武ライオンズの背番号7番の意味とは?

「ラッキー7」という言葉からも、数字の「7」は人から好まれる数字です。

プロ野球においても、7回の攻撃は点数が入りやすいイニングとして「ラッキー7」と呼ばれています。このことから、背番号7番もラッキーな背番号として、選手からも人気の番号です。

これまで、ラッキナンバーの背番号7番を付けた選手には、リードオフマンの役割を担った、打者に多くいました。西武ライオンズでも前身の球団の時代から、背番号7はチームを牽引するリーダーを意味しています。特に、西武ライオンズの背番号7番は、遊撃手のスラッガーの意味もあります。

チームのリーダーとなるべき素質を持っており、巧打者として1番若しくは3番の打順を任され、遊撃手として守備力の高い選手が、西武ライオンズの背番号7番の伝統として継承されています。

一方、西武ライオンズには、「背番号7番を付けて活躍をした選手は、球団から移籍する」といった、残念なジンクスもあります。将来、背番号7番の伝統が継承されることで、永久欠番となるべき選手が現れると期待がもたれます。

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歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介

次に、歴代の背番号7番を背負った選手を、全てご紹介します。

年 度年  数球 団 名選 手 名
1950年~1951年2年西鉄クリッパーズ~西鉄ライオンズ鬼頭政一選手
1952年1年西鉄ライオンズ八道勉選手
1953年~1962年10年西鉄ライオンズ豊田泰光選手
1963年~1967年5年西鉄ライオンズバーマ選手
1968年~1970年3年西鉄ライオンズ浜村健史選手
1971年~1975年5年西鉄ライオンズ~太平洋クラブライオンズ伊原春植選手
1976年~1979年4年太平洋クラブライオンズ~クラウンライターライオンズ~西武ライオンズ広瀬宰選手
1980年1年西武ライオンズ鴻野淳基選手
1981年~1994年14年西武ライオンズ石毛宏典選手
1995年~1996年2年西武ライオンズジャクソン選手
1997年~2003年7年西武ライオンズ松井稼頭央選手
2004年空白
2005年~2012年8年西武ライオンズ~埼玉西武ライオンズ片岡易之選手
2013年1年埼玉西武ライオンズ片岡治大選手
2014年~2015年2年埼玉西武ライオンズ脇谷亮太選手
2016年~2017年空白
2018年1年埼玉西武ライオンズ松井稼頭央選手
2019年空白
2020年埼玉西武ライオンズ金子侑司選手

背番号7番を背負った主な選手のご紹介

多くの選手が背番号7番を背負ってきましたが、その選手たちの中で3人の選手をご紹介したいと思います。

豊田泰光選手

生年月日  1935年2月12日
出身地   茨城県久慈郡
投/打   右/右
プロ野球歴 西鉄ライオンズ(1953年~1962年)
      アトムズ(1963年~1969年)
タイトル  首位打者1回、新人王
表彰    ベストナイン6回

豊田選手は野武士軍団として恐れられた、強打の西鉄ライオンズで主軸を努めた選手です。高校時代に遊撃手として高い評価を受けた豊田選手は、西鉄ライオンズに入団を果たすと、1年目から遊撃手としてレギュラーの座を掴み取ります。

ルーキーの初年度には、強打の2番打者として27本塁打を放つと、その年の新人王に輝きました。さらに、4年目のシーズンには、日本人史上初の遊撃手での首位打者を獲得します。

当時、宿敵であった南海ホークスに対抗するため、打撃の強化に努めていた西鉄ライオンズにおいて、中西太選手、大下弘選手と強打のクリーン・アップを築きました。

豊田選手こそが後世に継承されていく、西武ライオンズの背番号7伝説を作り出した選手といえます。

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石毛宏典選手

生年月日  1956年9月22日
出身地   千葉県旭市
投/打   右/右
プロ野球歴 西武ライオンズ(1981年~1994年)
      福岡ダイエーホークス(1995年~1996年)
タイトル  新人王
表彰    年間MVP1回、ベストナイン8回、ゴールデングラブ賞10回

石毛選手は、天性のリーダーシップ発揮し、西武ライオンズの黄金時代を支えました。入団1年目から本塁打21本、打率311で新人王を獲得するなど、西武の中心選手として活躍をいたしました。

また、遊撃手として守備力の評価も高く、ゴールデングラブ賞を10回も獲得いたしました。入団当初から背番号7を与えられた石毛選手は、福岡ソフトバンクへの移籍でチームを退団するまでの14年間に渡り、その背番号を守り続けました。

まさに、豊田選手から引き継がれてきた背番号7番伝説を、石毛選手は見事に継承しました。

松井稼頭央選手

生年月日  1975年10月23日
出身地   大阪府東大阪市
投/打   右/右・左
プロ野球歴 西武ライオンズ(1994年~2003年)
      ニューヨーク・メッツ(2004年~2006年)
      コロラド・ロッキーズ(2006年~2007年)
      ヒューストン・アストロズ(2008年~2010年)
      東北楽天ゴールデンイーグルス(2011年~2017年)
      埼玉西武ライオンズ(2018年~)
タイトル  盗塁王3回、最多安打2回
表彰    最優秀選手1回、ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞4回

高校野球の名門PL学園では投手として活躍をした松井選手でしたが、西武ライオンズからは野手として指名を受けて、プロ野球の世界に進みました。

入団当初は身体の軸がずれることから、中々バッティングで結果を出せずにいました。そこで、当時の矢沢コーチに指導を受けて、左打者へのスイッチを試みると、バッティングも上向きます。

持ち味の広角打法と、コンパクトなスイングながら長距離も打てる選手へと成長した松井選手は、入団3年目には開幕から遊撃手としてレギュラーを掴み取ると、その翌年には背番号を7に変更しました。

その後、松井選手はアメリカ大リーグへの移籍で球団を退団するまで、不動の遊撃手として、西武ライオンズの背番号7番伝説を守り続けました。

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まとめ

今回は、埼玉西武ライオンズの背番号7番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?前身の球団を含めると、のべ15人の選手が背番号7番を背負っていた事がわかりました。

野球に限らず、7という数字はとても人気があり、野球においても中心になる選手が背負う番号と言えます。今後どのような選手が埼玉西武ライオンズの背番号7番を背負って、どんな活躍を見せてくれるか楽しみにしたいと思います。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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