こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
元高校球児である私は、年に何回かプロ野球の試合を観に行きます。楽天イーグルスのファンなのですが、関東在住の私にとって本拠地の仙台にはなかなか観に行けない事もあり、千葉ロッテの本拠地のZOZOマリンスタジアムなどに足を運んでいます。
2019年現在、千葉ロッテマリーンズを率いる監督は、井口資仁さんです。井口さんというと2017年をもって現役を退きましたが、引退試合でホームランを放ったのが記憶に新しいですね。まだまだ現役でできるのになぁ。なんて思った事を思い出しました。
千葉ロッテで現役生活を終えてそのまま監督になった井口さん、まるで千葉ロッテの生え抜きみたいですが、最初のプロ野球の所属はダイエーホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)だった事を忘れてはいけません(^_^;)
今回は、福岡ソフトバンクホークスの背番号7番の特集です。まずは歴代の背番号7番の全選手と特に活躍した3選手をご紹介します。
さらに、ソフトバンクホークスの背番号7番をつけた選手の傾向にも触れていきますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介
2019年のシーズン開幕時点で、これまでにソフトバンクホークスの背番号7番を背負った選手は、合計で20名になります。まずは、ソフトバンクホークスの背番号7番を背負った歴代の全選手を、古い順から一挙ご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1938年 | 1年 | 南海軍 | 高野百介選手 |
1939年~1943年 | 5年 | 南海軍 | 岡村俊昭選手 |
1944年~1945年 | 2年 | 近畿日本軍 | 空白 |
1946年 | 1年 | 近畿グレートリング | 桶川隆選手 |
1947年~1949年 | 3年 | 南海ホークス | 岩本信一選手 |
1950年~1963年 | 9年 | 南海ホークス | 島原輝夫選手 |
1964年~1967年 | 4年 | 南海ホークス | 田中達彦選手 |
1968年 | 1年 | 南海ホークス | 大和田明選手 |
1969年~1983年 | 15年 | 南海ホークス | 藤原満選手 |
1984年 | 1年 | 南海ホークス | 久保寺雄二選手 |
1985年~1986年 | 2年 | 南海ホークス | 空白 |
1987年 | 1年 | 南海ホークス | 加藤英司選手 |
1988年 | 1年 | 南海ホークス | 湯上谷宏選手 |
1989年~1990年 | 2年 | 福岡ダイエーホークス | ウィリー・アップショー選手 |
1991年~1992年 | 2年 | 福岡ダイエーホークス | 水上善雄選手 |
1993年~1995年 | 3年 | 福岡ダイエーホークス | 佐藤真一選手 |
1996年 | 1年 | 福岡ダイエーホークス | 石毛宏典選手 |
1997年~2004年 | 8年 | 福岡ダイエーホークス | 井口忠仁選手 (改名:資仁) |
2005年~2008年 | 4年 | 福岡ソフトバンクホークス | 大村直之選手 |
2009年~2011年 | 3年 | 福岡ソフトバンクホークス | 立岡宗一郎選手 |
2012年 | 1年 | 福岡ソフトバンクホークス | 空白 |
2013年 | 1年 | 福岡ソフトバンクホークス | エディオス・バリオス選手 |
2014年 | 1年 | 福岡ソフトバンクホークス | 空白 |
2015年~ | 福岡ソフトバンクホークス | 中村晃選手 |
他球団から移籍してきたスター選手がつけているケースも多いですね。でも選手としては晩年に差し掛かっていたのか、短い年数で終わったいる事が多いようです(^_^;)
背番号7番を背負って活躍した3選手のご紹介
次に、これぞソフトバンクホークスの背番号7番と呼べる3名をピックアップし経歴をご紹介しますので、是非参考にしてください。
井口資仁選手
出身地 東京都西東京市
投/打 右/右
プロ野球歴
福岡ダイエーホークス(1997年~2004年)
シカゴ・ホワイトソックス(2005年~2007年)
フィラデルフィア・フィリーズ(2007年)
サンディエゴ・パドレス(2008年)
フィラデルフィア・フィリーズ(2008年)
千葉ロッテマリーンズ(2009年~2017年)
タイトル 盗塁王:2回、ベストナイン:3回、ゴールデングラブ賞:3回
井口選手は青山学院大学時代に、東都大学リーグで初の三冠王を獲得し、またリーグ記録となる1シーズン8本塁打も打ち立てます。
また、アトランタオリンピックに出場をすると、見事に銀メダルにも輝きました。アマチュア野球のエリート選手として注目を浴びた井口選手は、1996年のドラフト会議において、ダイエーホークスのドラフト1位として入団を果たします。
大学時代に「青い核弾頭」と称された井口選手は、当時、「ダイハード打線」と呼ばれていた福岡ダイエーホークスでも主軸を任されます。また、井口選手は走れる3番打者として、盗塁王のタイトルも2回獲得しています。
ただし、長打力はあるものの打率が伸び悩んでいたことから、当時の王監督が守備位置をショートからセカンドに変更させて、守備の負担軽減を図った事がありました。これが効を奏した井口選手は、守備面において心理的な余裕が生まれ、打撃に集中できるようになったと言われています。
私の井口選手の思い出というと、プロ入り後ではなく大学時代に出場したアトランタオリンピックとなります。
野球と言えばアメリカ発祥のスポーツで、実力で日本は勝つ事は難しいのではないかと私は思っていました。予選リーグでは予想通り?5対15という大差で完敗を喫してしまいます。何とか進出した決勝トーナメントの準決勝、相手はまたアメリカでした。
また歯が立たないのかなと思っていたところ・・・何と5本ものホームランを放って11対2で今度は圧勝という結果に。そのアメリカ戦で井口選手もホームランを打ったのでした。
あのアメリカに打ち勝った、それも5本もホームランを打って!これは野球小僧だった私には、良い意味でカルチャーショックでしたね(^_^;)
藤原満選手
出身地 愛媛県松山市
投/打 右/右
プロ野球歴 南海ホークス(1969年~1982年)
タイトル ベストナイン:1回、ダイヤモンドグラブ賞:2回
大学野球の名門近畿大学で、藤原選手はロッテオリオンズに入団をした有藤道世選手と、クリーンナップを打つ強打者として活躍をしました。
大学時代は中距離打者のイメージがありましたが、南海ホークスに入団後は、野村監督の指示から短打を狙うバッティングに変更し、1番打者の切り込み隊長として活躍します。
藤原選手は自分のバッティングを固めるために、太くて重いバットを使い、とにかくゴロを撃つ練習に励みます。この藤原選手の使用するバットが、ゴマなどをすり鉢でつぶすときに用いる「すりこぎ棒」に形状が似ていたことから、当時は「すりこぎバット」とも呼ばれました。
藤原選手が使用した「すりこぎバット」は、後に、短打を狙う一番打者に多く使用されるようにもなります。若松勉選手や福本豊選手、大石大二郎選手、高橋慶彦選手といった名だたる選手が愛用していきました。
藤原選手は、私が野球に興味を持った頃に活躍していました。ですので、名前も知っていましたし、野球雑誌などで写真を見る事も多かったです。
でも当時はテレビ中継と言えばほとんどが巨人戦だったし、今のように動画配信なんてものはなかったので、動いている姿はほとんど見た事がありませんでした(^_^;)
大村直之選手
出身地 兵庫県西宮市
投/打 左/左
プロ野球歴
大阪近鉄バファローズ(1994年~2004年)
福岡ソフトバンクホークス(2005年~2008年)
オリックス・バファローズ(2009年~2010年)
タイトル 最多安打:1回、ベストナイン:2回、ゴールデングラブ賞:3回
大村選手は兵庫県の育英高校から甲子園に出場をすると、チームの中心選手として活躍をみせ、見事に優勝を成し遂げました。
その年のドラフト3位で近鉄バファローズに入団をすると、2年目には1番センターでレギュラーに定着し、近鉄「いてまえ打線」のリードオフマンとして活躍します。当時、四死球の少ない1番打者として賛否ありましたが、巧みなバット・コントロールで、ヒットを量産します。
2004年に所属する近鉄球団の消滅を受けて、FA宣言した大村選手は、福岡ソフトバンクホークスに移籍しました。
すると、移籍1年目には自己最高の31盗塁を達成し、ゴールデングラブ賞にも輝く活躍を見せます。また、その翌年の2006年には、165安打で最多安打の初タイトルをも獲得します。
ダイエーホークスで順調にキャリアを重ねていた大村選手でしたが、移籍4年目に足の故障から試合出場が減少すると、その年のオフシーズンにオリックスへトレードに出されてしまいました。
そして、オリックスへ移籍後も足の故障が完治しなかった大村選手は、34歳の若さで戦力外通告を受けることになります。
この時、名選手の証でもあります、2000本安打の大記録まで、残り135本と迫っていました。当時は、3000本安打すら狙えると評されていた大村選手でしたが、戦力外通告後に獲得を希望する球団も現れず、突如の引退となりました。
個人的には、大村選手にトライアウトを受けてほしかったと思います。仮にトライアウトを受けても獲得希望の球団が現れるとは限らないし、受けなくても獲得に前向きな球団があって獲得してくれる確信があったのかもしれません。
でも、もっと頑張れたのではないかという気がしてならないのです。でも本人が決めた事ですし、後悔はしていないのでしょうね。
背番号7番を付けた選手の傾向とは?
「ラッキー7」という言葉からも、数字の「7」は人から好まれる数字であり、野球選手にとっても人気の番号です。
チームもラッキナンバーをつけた選手に、リードオフマンとしての役割を期待し、チーム勝利に導いて欲しいと願います。そのことから、プロ野球で背番号7の傾向は、打線に勢いを付ける1番打者や、チャンスに打順が回ってくる3番打者になります。
ソフトバンクホークスにおける背番号7番は、内野手と外野手が順番に継承している傾向があります。ただし、ソフトバンクホークスにおいても、チームを牽引する役割を持つ選手が、背番号7番を付ける傾向が見られます。
一方で、ソフトバンクホークスの背番号7番には、1年若しくは2年の短期間で番号が変遷する傾向もあり、空白期間を含めると、これまでに13回もあります。どうやら、ソフトバンクホークスの背番号7番には、ランキーナンバーとならない傾向もあるようです。
福岡ソフトバンクホークスに関しての話題はこちらからどうぞ。
⇒ソフトバンクホークスの話題
他にも野球に関する話題を多数お届けしています。
⇒野球に関する話題はこちらからどうぞ
背番号別の特徴に関しての話題を提供しています。
⇒背番号別の特徴
おわりに
今回は、福岡ソフトバンクホークスの背番号7番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
他の球団と同じく、1番バッターや3番バッターを任せられるような選手や、ソフトバンク特有の傾向としてチームリーダー的な選手がつけてきた事がわかりました。
2015年からは中村晃選手が7番をつけています。ソフトバンクの7番の傾向にピッタリと当てはまった特徴を持つ中村選手、体調不良を乗り越え長く活躍出来る事を願ってやみません。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした