こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
プロ野球の横浜DeNAベイスターズといえば、前身球団の大洋ホエールズを含めて、川崎や横浜という神奈川県のチームというイメージが強いですよね。
しかしプロ野球に参戦した1950年から2年間は山口県の下関が、1952年から2年間(ロビンス)は大阪が本拠地だったというから意外ですね!
今回は、そんなDeNAベイスターズの背番号5番を特集します。歴代の5番の全ての選手や特に印象深い3選手、さらに5番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号5番を背負った選手をご紹介
2020年現在で、DeNAベイスターズの背番号5番をつけてきた選手は16名となります。まずはその16名を、古い順にご紹介したいと思います。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1950年~1951年 | 2年 | 大洋ホエールズ | 大沢清選手 |
1952年~1953年 | 2年 | 大洋ホエールズ~大洋松竹ロビンズ | 清水秀雄選手 |
1954年 | 1年 | 大洋松竹ロビンズ | 杉川喜久雄選手 |
1955年~1956年 | 2年 | 大洋ホエールズ | 手塚明治選手 |
1957年~1958年 | 2年 | 大洋ホエールズ | 児玉利一選手 |
1959年~1963年 | 5年 | 大洋ホエールズ | 岩本堯選手 |
1964年~1965年 | 2年 | 大洋ホエールズ | マイク・クレスニック選手 |
1966年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1967年~1978年 | 12年 | 大洋ホエールズ~横浜大洋ホエールズ | 伊藤勲選手 |
1979年~1984年 | 6年 | 大洋ホエールズ | 基満男選手 |
1985年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1986年~1987年 | 1.5年 | 大洋ホエールズ | ダグ・ローマン選手 |
1987年 | 0.5年 | 大洋ホエールズ | ジム・アドゥチ選手 |
1988年~1993年 | 6年 | 横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ | 清水義之選手 |
1994年~2008年 | 15年 | 横浜ベイスターズ | 石井琢朗選手 |
2009年~2010年 | 2年 | 横浜ベイスターズ | 野口寿浩選手 |
2011年~2013年 | 3年 | 横浜ベイスターズ~横浜DeNAベイスターズ | 森本稀哲選手 |
2014年 | 1年 | 横浜DeNAベイスターズ | 空白 |
2015年~2022年 | 8年 | 横浜DeNAベイスターズ | 倉本寿彦選手 |
2023年~ | 横浜DeNAベイスターズ | 松尾汐恩選手 |
初代は大沢清選手です。大沢と聞くと、日本ハムで監督を務め、退任後はテレビのコメンテーターとして人気のあった、大沢親分こと大沢啓二さんを思い浮かべる方も多いと思います。
実は大沢清選手は、大沢啓二さんの実のお兄さんです。さらに清さんと啓二さんの間には紀三男さんがいて、3兄弟全てプロ野球選手でした。
2代目は清水秀雄選手です。戦前から戦後にかけて南海でプレー、後に中日ドラゴンズへ移籍後、ホエールズに入団しました。
投手としての勝ち星はちょうど100勝を挙げました。打者としても活躍し、4番打者を務めたこともあり、こちらでは通算266安打を放っている選手です。
3代目は杉川喜久雄選手です。投手でありながら、背番号を48番から5番に変更。後に3番→4番と変更を重ねました。
4代目・手塚明治選手は巨人から移籍してきた三塁手です。2年間プレーし引退しました。
5代目・児玉利一選手は1954年中日初の日本一達成時の4番打者です。こちらもホエールズ移籍後2年間プレーし引退しました。
6代目は岩本堯選手が背負いました。早稲田大では元西武ライオンズ監督・広岡達朗氏や王貞治選手の一本足打法の生みの親・荒川博氏らと同級生で、巨人に入団した外野手です。
巨人では5番を打っていた時期もありましたが、ホエールズ移籍後は1・2番を打ち、1960年のホエールズ日本一には主に2番打者として貢献しています。引退後はホエールズ、近鉄そして巨人でコーチ・フロントを歴任、コーチとしては数多くの名選手を育てました。
7代目はマイク・クレスニック選手、1964年にテスト入団でホエールズ入りした内野手です。
1964年、巨人・王選手が55本塁打したシーズンでは36本塁打を放ち、ホームランダービー2位となりました。ホエールズで3年プレーした後、近鉄、阪神タイガースでそれぞれ1年間プレーしています。ホエールズと近鉄時代の登録名は「クレス」。
8代目は伊藤勲選手です。ホエールズが優勝を飾った翌年の1961年に東北高から入団した捕手で、入団4年目の1964年から正捕手として活躍。以降南海に移籍する1981年までホエールズの女房役を務めました。
9代目は基満男選手、西鉄ライオンズにテスト入団から正二塁手まで上り詰めた苦労人です。
その守備はファンのみならずプロ選手からも称賛され、グラブに入ったボールを握りこぶしで叩きトスを上げるというプレーを習得していました。まさに玄人好みの野球選手、という印象がある基選手です。
10代目はダグ・ローマン選手がつけました。
「スーパーマリオ」似で人気のあったカルロス・ポンセ選手との左右コンビの大砲(ローマン選手が左打ち)で、当時ホエールズの代名詞であったスーパーカートリオと合体し「フリーウェイクインテット」なる名前が付けられていましたが、浸透していませんでした。
2年目も残留しましたが、シーズンが始まってからシクスト・レスカーノ選手を獲得したことで二軍行きを命じられるも拒否。そのまま退団しました。
ちなみに、レスカーノ選手はわずか20試合で「体力の限界」を理由に引退。ローマン選手を惜しむ声が上がったのは、言うまでもありません。
11代目はジム・アドゥチ選手です。突然退団したレスカーノ選手の後釜として6月に入団。13本塁打を放ちますが1年で退団しました。
当時流行していたファミリーコンピューター(ファミコン)の野球ゲームに登場するアドゥチ選手は、妙に長打力があり、密かな人気を集めていました。
12代目は清水義之選手です。ドラフト4位指名ながら、社会人野球出身ということもあり背番号5番を与えられた三塁手です。がっちりとした体格が印象的でした。
13代目は石井琢朗選手です。元々は投手で、ドラフト外入団ながら入団1年目にプロ初勝利を挙げています。
入団3年目のシーズンオフに打者転向、翌年には三塁手のレギュラーを奪いました。ドラフト外入団選手として史上2人目の2000本安打達成者で、盗塁王には4回輝いています。
14代目は野口寿浩選手が背負っています。
ヤクルトスワローズを皮切りに、日本ハムではビッグバン打線の一員として、阪神では2番手捕手として活躍しました。FA移籍したベイスターズではケガもありほぼ出番がないまま引退となっています。
15代目は森本稀哲選手です。北海道日本ハムからFA移籍してきましたが、ちょうど荒波翔選手らの台頭期と重なりレギュラーとはならず。
3年間プレーした後、埼玉西武へ移籍しました。
16代目は倉本寿彦選手。2017年まではショートのレギュラーだったものの、阪神からFA移籍した大和選手にポジション争いで後れを取り、打撃面でも不振から抜け出せていません。
17代目は松尾汐恩選手です。2022年のドラフト会議では横浜から単独1位指名を受け入団。背番号は5番となりました。横浜が捕手をドラフト1位指名するのは谷繁選手以来34年ぶりでした。
歴代背番号5番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、DeNAベイスターズの背番号5番をつけた選手のうち、私が印象深く感じている伊藤選手、石井選手、そして倉本選手をご紹介したいと思います。
伊藤勲選手
出身地 宮城県仙台市
投/打 右/右
プロ野球歴
大洋ホエールズ~横浜大洋ホエールズ(1961年~1978年)
南海ホークス(1979年~1981年)
タイトル等 オールスター出場5回
ホエールズ~ベイスターズの歴史で、「強打の捕手」と言えば多くの方は谷繁元信選手を思い浮かべることでしょう。しかし、今回ご紹介する伊藤選手は、谷繁選手でも抜けなったチームの捕手として最多となる23本塁打を記録した、強打者でした。
ちなみに谷繁選手の自己最多本塁打は24本ですが、これは中日ドラゴンズ移籍後に記録ています。
伊藤選手は、1961年に宮城・東北高からホエールズ入りしました。
前年日本一を達成したチームには土井淳選手という三原脩監督の信頼も厚い正捕手が君臨していました。それでもプロ1年目から公式戦に出場し、プロ2年目には初ヒット、3年目には初ホームランを記録。順調に経験を積んでいきます。
4年目の1964年には125試合に出場、打率は.217と低いながらも13本塁打を放ち、長打力を武器として土井捕手から定位置を奪います。
背番号をそれまでの34番から5番に変更したのはプロ入り7年目の1967年です。翌1968年には14本、1969年には前述の23本塁打を記録しました。
この2年は連続してオールスターにも選出されています。1973年には全130試合に出場するなど、ケガ知らずでもありました。
しかし、1975年頃から著しい成長を遂げた福島久晃選手や阪神タイガースから移籍してきた辻恭彦選手らに出番を譲るようになり、伊藤選手は捕手だけでなく外野手としての出場も増えます。
1979年、南海ホークスへ移籍。前年は0本に終わった本塁打数を再び2桁の10本に乗せ、古巣に対し意地を見せました。
1981年シーズン限りで引退。引退後は社会人野球・NTT東日本のコーチを務めチームを強豪へと成長させます。2007年5月26日、ガンのため65歳という若さでお亡くなりになられました。
石井琢朗選手
出身地 栃木県佐野市
投/打 右/左
プロ野球歴
横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ(1989年~2008年)
広島東洋カープ(2009年~2012年)
タイトル等 盗塁王4回・最多安打2回
ベストナイン5回・ゴールデングラブ賞4回・オールスター出場6回
ファンに「ミスターベイスターズ」を選ぶとしたら?という質問をすれば、多くの方が石井選手を挙げる事でしょう。それだけの人気を実績を積み重ねた選手です。
栃木・足利工業高時代はピッチャーとして活躍して、2年生の夏に甲子園へ出場しました。
プロ入りに際してはホエールズとヤクルトスワローズから声が掛かったものの、投手としてスカウトされたホエールズに対し、ヤクルトは野手としての才能を高く評価します。
当時、投手としてのプロ入りを目指していた石井選手はホエールズ入りを希望し、ドラフト外で入団しました。
プロ1年目の1989年から公式戦に登板、17試合で1勝1敗、防御率3.56と高卒ルーキーとしては充分な成績を残します。しかし3年目のオフに、投手として限界を感じた石井選手は自ら打者転向を決断、内野手となります。
打者転向1年目の1992年から早くも公式戦に出場を果たします。シーズン後半にはレギュラー三塁手だった清水義之選手との競争に勝ち、レギュラーを掴みました。
チームが横浜ベイスターズになった1993年には、24盗塁で初の盗塁王を獲得、さらに規定打席にも達するなど、あっという間に主力打者の仲間入りを果たします。
この年から2006年までの14年間連続で規定打席に到達し、1997年の打率.319を最高に打率3割を4回も記録しました。
1996年に遊撃手へコンバートされると翌1997年から5年連続でゴールデングラブ賞、1998年からは3年連続で盗塁王と走攻守揃ったリードオフマンとしてベイスターズを牽引します。
1998年のベイスターズ日本一にも「1番・ショート」としてマシンガン打線の切り込み隊長を務めました。
2006年5月11日、対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で通算2000本安打を達成します。投手として勝ち星を挙げたことのある選手の達成は、あの川上哲治氏以来史上2人目の快挙、ドラフト外入団選手としても秋山幸二氏に次ぎこちらも史上2人目の偉業となりました。
2007年にヒザを手術した影響で規定打席に届かずに終わると、翌2008年にはチームの若手優先起用方針で出番が減少します。
チームからは功績を認められ現役引退、コーチ転身を勧められますが石井選手は拒否。広島東洋カープへ移籍しました。
広島では4年間プレーしましたが、年齢的な衰えもあり代打や守備固めがメインとなりました。
しかし、横浜スタジアムで石井選手が打席に立つと、カープファンだけでなくベイスターズファンまでも応援歌を合唱するなど、最後までファンに愛され続けました。
2012年、24年にわたる現役生活に幕を下ろしました。石井選手はそのまま広島に残り、コーチとして2016年のリーグ制覇に大いに貢献しました。
その後、ヤクルトを経て2020年からは巨人の一軍野手総合コーチに就任しています。そしていつの日か、ベイスターズに戻り監督・コーチを務められる日をファンは待っています!
倉本寿彦選手
出身地 神奈川県茅ケ崎市
投/打 右/左
プロ野球歴 横浜DeNAベイスターズ(2015年~)
タイトル他 特になし
倉本選手は、ベイスターズの地元・横浜高出身です。
同級生のエースは、北海道日本ハムファイターズに入団した土屋健二選手で、一学年下には筒香嘉智選手がいました。土屋選手も後にトレードでベイスターズに入団し、再びチームメイトになります。
進学した創価大では、東京ヤクルトスワローズに入団する小川泰弘投手と同級生です。小川選手は大卒でプロ入りしたものの、志望届を出したものの倉本選手に指名はありませんでした。
社会人野球・日本新薬に入社すると1年目からレギュラーを掴み、日本代表にも選出されます。そして2014年のドラフト会議でベイスターズから3巡目指名を受け念願のプロ入りを果たしました。
プロ1年目の2015年、ルーキーながら「7番・ショート」で開幕スタメンに抜擢されます。新人がショートの開幕スタメンに起用されるのはチームとして44年振りのことでした。
2015年シーズンは102試合に出場、打率.208に終わりますが、2年目の2016年は141試合に出場し打率.298を記録しています。規定打席に到達し、打撃成績11位に入る飛躍のシーズンとなりました。
2017年はレギュラーシーズン143試合に加え、クライマックスシリーズ8試合そして日本シリーズの6試合全てにフルイニング出場しています。前年より打率を下げ.262に終わりますが、不動のショートとしての地位を確立したかに見えました。
2018年、阪神タイガースから大和選手がFAでベイスターズに移籍してきました。大和選手はショートとして起用されることが決定、倉本選手はセカンドとして起用されます。
しかし、自身の打撃不振に加え、ネフタリ・ソト選手がセカンドで奮闘、本塁打王を獲得したことで出番は一気に減少しました。
2019年も前年からの打撃不振を引きずり、また守備でもショートにこだわったものの大和選手の壁は高く、プロ入りご最低の24試合出場に留まってしまいます。
2020年には、虎視眈々と巻き返しを狙っているでしょうね。
背番号5番をつけた選手の傾向とは?
DeNAベイスターズの背番号5番をつけてきた選手のポジションは、投手から捕手、内野手、外野手と、全てにわたっています。
その中でも、石井選手や基選手や清水選手、倉本選手がつけてきたので、内野手という傾向があると言えるのではないでしょうか。
でも、ミスターベイスターズの呼び声が高い石井選手がつけてきた事が、DeNAベイスターズの背番号5番の傾向に大きな影響を与えているのも間違いありませんね。
⇒プロ野球の永久欠番と準永久欠番!球団ごとに意味と全選手をご紹介
当ブログの横浜DeNAベイスターズに関しての話題はこちらからどうぞ。
⇒横浜DeNAベイスターズの話題
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おわりに
今回は、DeNAベイスターズの背番号5番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
つけてきた選手をみてみると、石井選手に代表される内野手の番号という傾向があると思います。
2015年から5番をつけている倉本選手ですが、2020年シーズンでまだ29歳という年齢の倉本選手。老け込みにはまだまだ早いですし、このまま去ってしまっては地元出身選手ということもありファンがガッカリします。
このまま終わって欲しくない、いや終わるはずがない。倉本選手の復活を、ベイスターズファンは待っています!
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。