こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
プロ野球の横浜DeNAベイスターズは、前身球団の大洋ホエールズの誕生から90年以上の歴史を持つチームです。
約20年のアマチュアチーム時代を経て、1950年よりプロ野球球団となりました。
今回は、横浜DeNAベイスターズの背番号4番を特集します。歴代の4番の全選手や特に印象に残っている3選手、さらに4番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号4番を背負った選手をご紹介
横浜DeNAベイスターズの背番号4番は、2021年現在で22選手がつけてきましたが、その歴史は、珍しい苗字の選手から始まります。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1950年~1953年 | 4年 | 大洋ホエールズ~大洋松竹ロビンズ | 空白 |
1954年 | 1年 | 大洋松竹ロビンズ | 百々隆夫選手 |
1955年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 関口正巳選手 |
1956年~1957年 | 2年 | 大洋ホエールズ | 入部久男選手 |
1958年~1960年 | 3年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1961年~1962年 | 2年 | 大洋ホエールズ | 岩岡保宏選手 |
1963年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1964年 | 1年 | 大洋ホエールズ | ディーン・ストーン選手 |
1965年~1966年 | 2年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1967年~1968年 | 2年 | 大洋ホエールズ | フランシス・アグウィリー選手 |
1969年 | 1年 | 大洋ホエールズ | アンディ・ロジャース選手 |
1970年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1971年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 飯塚佳寛選手 |
1972年 | 1年 | 大洋ホエールズ | クリート・ボイヤー選手 |
1973年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 宮原秀明選手 |
1974年~1975年 | 2年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1976年~1978年 | 3年 | 大洋ホエールズ~横浜大洋ホエールズ | 矢野俊一選手 |
1979年 | 1年 | 横浜大洋ホエールズ | ジーン・マーチン選手 |
1980年 | 1年 | 横浜大洋ホエールズ | スキップ・ジェームス選手 |
1981年~1982年 | 2年 | 横浜大洋ホエールズ | ジェームス・ピータース選手 |
1983年 | 1年 | 横浜大洋ホエールズ | 空白 |
1984年~1987年 | 4年 | 横浜大洋ホエールズ | 吉本博選手 |
1988年~1989年 | 2年 | 横浜大洋ホエールズ | 空白 |
1990年~1995年 | 6年 | 横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ | 横谷彰将選手 |
1996年 | 1年 | 横浜ベイスターズ | 大塚義樹選手 |
1997年~2000年 | 4年 | 横浜ベイスターズ | 新井潔選手 |
2001年 | 1年 | 横浜ベイスターズ | デーブ・ドスター選手 |
2002年 | 1年 | 横浜ベイスターズ | マイク・グラン選手 |
2003年~2010年 | 8年 | 横浜ベイスターズ | 北川利之選手 |
2011年~2018年 | 8年 | 横浜ベイスターズ~横浜DeNAベイスターズ | 荒波翔選手 |
2015年~ | 横浜DeNAベイスターズ | 伊藤裕季也選手 |
初代は百々隆夫(どどたかお)選手です。チーム創設から4年後の1954年に背番号4番を初使用しました。国鉄スワローズから移籍した外野手でしたが、1年でホエールズを退団、大映スターズへ再度移籍していきました。
2代目は関口正巳選手でした。巨人から移籍してきた投手で、翌年には背番号を29番に変更しています。
3代目は入部久男選手です。社会人野球・鹿児島市電からプロ入りした外野手でしたが、2年で引退しました。引退後は古巣・鹿児島市電の監督を務められました。
4代目・岩岡保宏選手は明治大の同級生5人が揃ってホエールズ入りした「明大5人衆」の一人です。入団時は背番号3番でしたが、プロ入り5年目の1961年に背番号を4番へ変更しました。
5代目はディーン・ストーン投手です。MLBでオールスター出場経験もある左腕でしたが、来日時には往年の力は無く、わずか3か月で解雇となりました。
6代目はフランシス・アグウィリー選手がつけました。ホエールズ→西鉄ライオンズ→ホエールズ→阪急ブレーブスと移籍した選手でした
登録名も本名のアグウィリーの他アグリー、アギーとしたこともある選手です。日本では通算8年プレーし69本塁打を放ちました。
7代目・アンディー・ロジャース選手はMLBで11年プレーした選手、8代目・飯塚佳寛選手はドラフト14位からレギュラーに這い上がった選手です。
9代目・ロジャー・ボイヤー選手は別名「野球博士」と呼ばれた選手。いずれ詳しくご紹介したい選手です。
10代目は近鉄バファローズから移籍してきた宮原秀明選手、11代目は対左投手の代打で活躍した矢野俊一選手と続きました。
12代目はジーン・マーチン選手です。1974年の中日優勝に4番打者として貢献しました。
板東英二さんが歌ってヒットした「燃えよドラゴンズ」の歌詞「4番マーチン ホームラン」とは、このジーン・マーチン選手の事です。1974年から5年間中日でプレー、1979年の1年だけホエールズに在籍しました。
13代目はジェームス・ピータース選手です。
来日1年目の1981年はそこそこ活躍し残留したものの、翌年2人の新外国人が入団、1軍から弾かれてしまいます。左投げを活かし、投手に転向したものの登板機会はありませんでした。
14代目・吉本博選手は元々太平洋クラブライオンズの捕手です。ホエールズに移籍し、退団後は韓国プロ野球界で活躍しています。
15代目・横谷彰将選手は国士館大~熊谷組を経て入団した外野手です。左打ちのシュアな打撃で1990年には1番打者として活躍しました。
16代目・大塚義樹選手は新浦壽夫投手との交換トレードで福岡ダイエーホークスから移籍してきた選手です。強打が売りの捕手でした。
17代目・新井潔選手はヤクルトスワローズからの移籍組です。東京農大二高~本田技研を経てプロ入りした内野手で後には外野も守り、ユーティリティープレーヤーとして活躍しました。
18代目はデーブ・ドスター選手となります。ドスター選手はこの2001年限りの在籍で、成績も.272 9本塁打27打点という可もなく不可もないものでした。
しかし、2001年9月30日の槙原寛己投手と村田真一捕手、そして「平成の大エース」と謳われた斎藤雅樹投手の引退試合を、記憶しているファンの方も多いのではないでしょうか。
9回、斎藤の両投手が現役最後のマウンドに上がりドスター選手から三振を奪い、有終の美を飾りました。
NPBでは暗黙の了解で、引退する選手に花を持たせますが、ドスター選手のスイングを見る限り、本気で立ち向かっていたのです。
あの試合で三振した後の、NPB独自のしきたりに違和感を覚えているかのような哀愁を漂わせた背番号4番を、選手の名前は忘れたけれど覚えている、という方は巨人ファン、そしてベイスターズファンにも少なからずいらっしゃいます。
19代目のマイク・グラン選手も1年限りで退団していきました。
20代目は北川利之選手でした。大阪桐蔭高~法政大~現在のJFE西日本(当時は川崎製鉄水島)と経てプロ入り。二軍では好成績を残したものの、一軍でその力は発揮できずに引退となっています。
21代目は荒波翔選手です。横浜高~東海大~トヨタ自動車とエリートコースを歩んできた外野手で、ゴールデングラブ賞を2回獲得した守備の名手でした。
22代目は伊藤裕季也選手です。初スタメンとなった試合で5番打者に抜擢、そこで2打席連続ホームランを放った期待の内野手です。
歴代背番号4番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、横浜DeNAベイスターズの背番号4番をつけてきた選手のうち、私が特に印象に残っている、横谷選手、荒波選手、そして期待を込めて伊藤選手をご紹介したいと思います。
横谷彰将選手
出身地 兵庫県三木市
投/打 右/左
プロ野球歴
横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ(1988年~1995年)
阪神タイガース(1996年)
タイトル等 特になし
横谷選手は、国士館大から熊谷組を経て、1988年にドラフト5位で入団しました。
1990年、これまでプロ2年間で一軍出場わずか13試合だった横谷選手を須藤監督は「1番・センター」に起用します。
すると4月7日の開幕戦・対中日ドラゴンズ戦では、前年に20勝を挙げた西本聖投手らから4安打を放ち、翌8日は今中慎二投手らを相手に3安打と2試合連続の猛打賞と大活躍をみせます。
開幕戦こそ引き分けに終わりましたが第2戦は勝利し、以降チームは3連勝。結局4月は10勝6敗1分けと好調に滑り出し、「今年のホエールズは違うぞ」と印象付けました。
横谷選手はそのまま1番打者に座り、途中息切れしたものの116試合に出場、打率.276 出塁率は.349と7まずまずの成績を残します。チームを1983年以来のAクラス入りとなる3位と躍進させました。
翌1991年は熊谷組の後輩・宮里太選手が台頭、実力者の屋舗要選手も復調したこともあり出番が激減。スタメン起用はほぼなくなり代打での出場が多くなります。その後も畠山準選手らの移籍組やグレン・ブラッグス選手の入団などによりついに1995年オフ、戦力外通告。
1996年は阪神タイガースに移籍したものの出番は無く、この年限りで引退となりました。
荒波翔選手
出身地 横浜市瀬谷区
投/打 右/左
プロ野球歴
横浜ベイスターズ~横浜DeNAベイスターズ(2011年~20018年)
タイトル等 ゴールデングラブ賞2回
荒波選手は、神奈川・横浜高時代には同級生に成瀬善久投手、一学年下に涌井秀章投手、石川雄洋選手がいた環境でプレーしていました。1年生からレギュラー外野手として試合に出場するほどの、大活躍をみせます。
東海大へ進学後もリーグ戦で首位打者になるなど活躍し、卒業後は社会人野球の名門・トヨタ自動車へ入社します。ここでも入社1年目からレギュラーとなり、日本選手権では打率.500の大活躍でチームを優勝へ導きました。
プロ解禁となる2年目は不振にあえぎプロからの指名は見送られますが、3年目の2010年には復調、地元であるベイスターズからドラフト3巡目指名を受け、念願のプロ入りを果たしました。
1年目は公式戦28試合の出場に終わりますが、プロ2年目の2012年、機動力野球を掲げる中畑清新監督に抜擢され「7番・センター」で開幕戦でスタメン出場を果たします。
ほどなく1番打者に定着し、141試合に出場、打率.268ながら24盗塁を記録し、中畑監督の期待に応えます。また俊足・強肩を活かした守備でも活躍、初のゴールデングラブ賞を受賞しました。
2013年は盗塁を試みたときの交錯プレーで骨折、手術を受けた影響で打撃不振に陥ってしまいました。1番打者は高校の後輩・石川選手が務め、荒波選手は下位打線を受け持ちます。
それでも126試合の出場で打率.258 19盗塁をマーク、2年連続となるゴールデングラブ賞も受賞しました。
2014年以降は毎年のようにケガを繰り返し、出場試合数も100試合を大きく下回ります。それでも2015年には70試合出場で打率.298を記録するなど活躍を示しますが長続きはせず、2016年は36試合、2017年には47試合の出場に留まってしまいます。
2018年、13試合に出場、11打数ノーヒットに終わったことで戦力外通告を受けました。他球団で現役続行を希望するも獲得球団は現れませんでした。
2019年、メキシカンリーグでプレーを続行するも6月中旬で解雇され、帰国しています。帰国後は古巣・ベイスターズが運営するベースボールクラブのコーチに就任しました。
他に2020年からは独立リーグに新規参加する神奈川フューチャードリームズのアドバイザー兼コーチ、テレビ神奈川の野球解説者など多方面で活躍しています。
ケガが多く、実働期間は8年だったのが残念でした。もっとそのプレーを見ていたい選手でした。
伊藤裕季也選手
出身地 三重県四日市市
投/打 右/右
プロ野球歴 横浜DeNAベイスターズ(2019年~)
タイトル他 特になし
伊藤選手は三重県の四日市市出身ですが、高校は野球の強豪校として全国的に知られている、東京の日大三高に進学しました。
その後、立正大学に進んだ伊藤選手は、4年の秋には東都大学リーグ及び明治神宮野球大会で優勝を経験し、2018年のドラフト会議でベイスターズから2位指名を受けて入団しました。
伊藤選手と言えば、2019年の8月10日の対中日ドラゴンズ戦での、活躍を覚えているファンも多いことでしょう。
この日、「5番・セカンド」でプロ初スタメンとなった伊藤選手。迎えた6回裏、中日・小笠原慎之介投手が投じた内角のストレートを強引にフルスイング。打球はレフトスタンドに消えるプロ初ホームランとなりました。
続く8回裏の打席では、ジョエリー・ロドリゲス投手から2打席連続のホームラン。最高の初スタメン試合となりました。
2019年は全部で4本のホームランを放ち、52打数17安打の打率.288でシーズンを終えました。正三塁手である宮﨑敏郎選手が骨折したことによる一軍昇格でしたが、しっかりと結果を残したあたり、いわゆる「持っている」選手なのではないでしょうか。
182cm 96kgの堂々たる体躯を誇り、引っ張り専門ではなく広角に長打が打てることが魅力です。守備面での不安や、追い込まれてからのバッティングが小さくなってしまうなど課題は多いですがそこはまだプロ2年目です。
かつて、主砲を務めた村田修一選手もプロ3年目の交流戦で9番を打たされたことがあります。当時の牛島和彦監督に「9番の次はないんじゃ!」とハッパを掛けられ覚醒、翌年から4番打者としてチームを牽引しました。
伊藤選手もどんどん壁にぶち当たって、悩んで苦しんで欲しいと思います。それを跳ねのける力を、スケール感を感じるからこそ、ファンの多くが伊藤選手に期待しているからこそ、言わせていただきます。
神は、乗り越えられない試練は与えない、とよく言います。しかしそれは「乗り越えられる人だけに」与えられるもの、という注釈が付くのです。
背番号4番をつけた選手の傾向とは?
他の球団同様に、日本人は4という数字を好まない事もあり、外国人選手が比較的多くつけてきた、というのが傾向と言えるでしょう。しかし、「背番号4番と言えば?」という質問をされるとなかなか答えに困りるのも事実ですね。
1954年以来22人もの選手が4番をつけてきて、2020年の時点で北川選手と荒波選手の8年が最高と、かなり入れ替わりが多いといえます。それだけベイスターズの背番号4番には「色が付いていない番号」なのです。
最近のファンの多くは荒波選手の名を挙げることでしょう。しかし、2000本安打を打つような輝かしい記録は残せないで引退となってしまいました。
今後、10年を超える期間つけた選手が現れれば、その選手が横浜DeNAベイスターズの背番号4番は?という質問に、真っ先に名前が挙がる選手となるでしょうね。
⇒プロ野球の永久欠番と準永久欠番!球団ごとに意味と全選手をご紹介
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