こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
1993年11月8日、横浜ベイスターズからチームの顔ともいうべき高木豊選手に戦力外通告をし、ベイスターズファンにとって、いや、プロ野球ファンにとっても衝撃が走りました。
高木選手は1993年シーズン130試合にフル出場したバリバリのレギュラー選手だっただけに「まさか」というニュースとなったのです。
この解雇劇は当然ながら様々な憶測を生みます。FA宣言し、ベイスターズ移籍が濃厚と言われていた巨人・駒田徳広選手獲得のための資金捻出説、チーム名を変えたものの成績が向上しないことに業を煮やしたフロントの見せしめ説・・・。
ただ、長年チームを支えてきた選手をいとも簡単に切ったフロントの非情さを糾弾するファンがいたことも事実として書き記しておかなければなりません。
今回は高木選手が着けていた背番号3番についてお話したいと思います。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号3番を背負った選手をご紹介
まずは、DeNAベイスターズの背番号3番をつけた全選手を、古い順にご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1950年~1954年 | 5年 | 大洋ホエールズ~大洋松竹ロビンズ | 藤井勇選手 |
1955年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 杉川喜久雄選手 |
1956年~1960年 | 5年 | 大洋ホエールズ | 岩岡保宏選手 |
1961年~1964年 | 4年 | 大洋ホエールズ | 箱田淳選手 |
1965年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1966年 | 1年 | 大洋ホエールズ | ケン・アスプロ選手 |
1967年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 平松政次選手 |
1968年~1969年 | 2年 | 大洋ホエールズ | 空白 |
1970年 | 1年 | 大洋ホエールズ | 荒川堯選手 |
1971年~1979年 | 9年 | 大洋ホエールズ~横浜大洋ホエールズ | 野口善男選手 |
1980年~1981年 | 2年 | 横浜大洋ホエールズ | 岩井隆之選手 |
1982年~1993年 | 12年 | 横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ | 高木豊選手 |
1994年~1998年 | 5年 | 横浜ベイスターズ | 空白 |
1999年~2001年 | 3年 | 横浜ベイスターズ | 古木克明選手 |
2002年 | 1年 | 横浜ベイスターズ | 石井浩郎選手 |
2003年 | 1年 | 横浜ベイスターズ | スティーブ・コックス選手 |
2004年~2007年 | 4年 | 横浜ベイスターズ | 種田仁選手 |
2008年 | 1年 | 横浜ベイスターズ | ジェイジェイ選手 |
2009年 | 1年 | 横浜ベイスターズ | ダン・ジョンソン選手 |
2010年~2011年 | 2年 | 横浜ベイスターズ | ターメル・スレッジ選手 |
2012年~2013年 | 2年 | 横浜DeNAベイスターズ | アレックス・ラミレス選手 |
2014年~2020年 | 7年 | 横浜DeNAベイスターズ | 梶谷隆幸選手 |
2021年 | 横浜DeNAベイスターズ | 空白 | |
2022年 | 1年 | 横浜DeNAベイスターズ | 藤田一也選手 |
2023年~ | 横浜DeNAベイスターズ | タイラー・オースティン選手 |
1950年から4年間、ホエールズ初代の背番号3番を背負ったのは、藤井勇選手です。
戦前の1リーグ時代は阪神でプレーしていた選手で、1936年春のシーズン、東京セネタース(現在の北海道日本ハムファイターズの前身)・野口明投手から放ったランニングホームランが、公式戦初本塁打として記録されています。
藤井選手は、戦争で中断した1年を除き1958年まで実に21年間もプロでプレーしました。ホエールズ移籍後の1955年からは兼任監督を務めましたが、おそらくこれも史上初でしょう。
2代目は杉川喜久雄投手でした。投手でありながら背番号を5番→3番→2番と変更した異色の選手です。
3代目は岩岡保宏選手です。1960年のホエールズ初の日本一時のエース・秋山登投手、正捕手の土井淳捕手を始めとする明治大出身者5人が同時にホエールズ入りした、いわゆる「明大5人衆」の一人で、遊撃手を務めていました。
4代目は箱田淳選手です。国鉄スワローズの中心打者であり、投手としても4勝を挙げています。チーム内の権力闘争もあり、当時10年プレーすれば好きな球団に移籍できるという「A級10年選手制度」を利用しホエールズに移籍、4年間プレーしました。
5代目はケン・アスプロ選手。MLBから中日ドラゴンズへ入団、その後ホエールズへ移籍した選手です。引退後はMLBクリーブランド・インディアンスで監督を3年間務めました。
本名はアスプロモンテ。長すぎてスコアボードに表示しきれないから短縮されたようです。
6代目は平松政次投手でした。えっ、と思ったファンの方も多いと思いますが、後のホエールズのエース・平松投手は入団1年目は背番号3番を着けてプレーしていたのです。
これは平松選手がシーズン途中入団で然るべき背番号が空いていなかったこと、そして何より平松選手が巨人・長嶋茂雄選手の大ファンだったことから3番を着けてプレーすることを平松選手自身が望んだのです。
翌年から27番に変更となりました。未だに球団名が変わっても、ベイスターズのエース番号は27番だとおっしゃるご年配のファンが多くおられますが、それは平松選手が由来となっているのです。
7代目は荒川尭選手。しかし、荒川選手を7代目とカウントするのにはいささか違和感があります。なぜなら、1日しか背番号3番を着けていません。
名前を見てピンときた方も多いと思いますが、この荒川選手はいわゆる「荒川事件」の被害者です。
荒川事件を簡単に説明しますと、当時のヤクルトアトムズもしくは巨人入りを熱望したものの、意中球団ではないホエールズにドラフト指名されます。入団を拒否し続けていたところ、何者かに殴打されケガをした、という事件です。犯人は未だ逮捕されていません。
結局、前例としないことを条件にヤクルトにトレードされることとなったものの、当時のコミッショナー命令でホエールズの練習に1日だけ参加し、背番号3番を着用したのでした。
8代目は野口善男選手です。1970年のドラフト会議で1位指名された内野手、のち外野も守るようになりますが、打撃で伸び悩み、守備要員の域を脱しないまま引退しました。
その後はフロント入りし、最終的に球団取締役まで昇進。事実上、ホエールズ~ベイスターズ初期にチーム編成の責任者として辣腕を振るわれました。
日本ハムファイターズから移籍した岩井隆之選手を挟み、10代目が高木豊選手です。シュアなバッティング、堅実な2塁守備、そして盗塁王にも輝いた俊足と長くホエールズの看板選手として活躍しました。
高木選手退団後、5年の空白を経て1999年、ドラフト1位で入団した古木克明選手が3番を背負います。
小学校の卒業文集に「プロ野球選手になりたい。ただし、ロッテ・大洋だけには入りたくない」と書いていたそうです。不吉なプロ生活の始まりでしたが、そのポテンシャルが花開いたとは言えない成績に終わってしまいました。
古木選手が33番に変更した2002年、石井浩郎選手がロッテから移籍し3番を着けます。2003年は新外国人のスティーブ・コックス選手と1年限りの選手が続いたあと2004年からは種田仁選手が3番を背負います。
「ガニマタ打法」で有名な種田選手。内川聖一選手らと二塁の定位置を争っていましたが仁志敏久選手が巨人から移籍し出番が激減してしまいます。埼玉西武ライオンズへトレードされました。
2008年にはジェイジェイ選手、2009年はダン・ジョンソン選手と1年で持主が移り変わって2010年、北海道日本ハムから移籍のターメル・スレッジ選手が3番を着用します。2年間プレーした後、再び北海道へ戻っていきました。
2011年からは現監督のアレックス・ラミレス選手が巨人から移籍してきました。現役生活晩年ということもあり、守備では衰えが目立ってしまいました。追われるように退団し、独立リーグへと移籍しました。
2014年からは梶谷隆幸選手です。2007年にプロ入り後、ブレイクしたのは7年目の2013年となります。シーズン前半は内野手の守備要員でミスを連発、二軍降格しましたが後半戦では本塁打を連発します。結局シーズン16本塁打を放ち、一気に期待の星となりました。
2022年は、ベイスターズに所属していた藤田一也選手が東北楽天ゴールデンイーグルスより移籍、3番をつけてチームを引っ張りました。
21代目はタイラー・オースティン選手です。2020年シーズンから横浜に移籍すると2年連続で20本塁打をマーク。2021年にはアメリカ代表として東京五輪にも出場しました。
歴代背番号3番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、横浜DeNAベイスターズの背番号3番をつけた選手のうち、私にとって印象深い3選手をご紹介します。
高木豊選手
出身地 山口県防府市
投/打 右/左
プロ野球歴
横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ(1981年~1993年)
日本ハムファイターズ(1994年)
タイトル等 盗塁王1回・ベストナイン3回・オールスター出場8回
かつてのホエールズの代名詞であった「スーパーカートリオ」、2番・加藤博一、3番屋舗要両選手を従え、1番打者に務めていたのが高木選手でした。
スーパーカートリオが誕生したのは1985年ですが、その前年の1984年、高木選手が盗塁王を獲ったことがトリオ結成の一因であったことは、言うまでもありません。
シーズン打率3割を8回も記録するなど、ホエールズを代表する看板選手であったことは間違いない高木選手ではありますが、その現役生活にはどこか抜け穴というか、もどかしさが付きまとっていました。
例えば1987年、二塁手としてのシーズン守備率で日本記録となる.997を達成しながらゴールデングラブ賞を逃したり、1992年には史上22人目の300盗塁を達成したものの、盗塁成功率は22人中ワーストの.643であったり・・・。
その「もどかしさ」が高木選手の「人気」と正比例していた感は否めませんが、高木選手がプレーしていた頃のホエールズはもっと強いチームとなっていいはずなのに、そうはならない歯がゆさが募りました。
そして、全130試合にフル出場し規定打席にも到達していた1993年のシーズンオフ、戦力外通告を受けようとは、誰も想像していませんでした。
一旦は中日ドラゴンズ入りが内定したものの、ご破算となり入団した日本ハムでは「内野だけでなく外野でも守る」と宣言し、実際に外野手としての出場が主でしたが、期待されたほどの成績は残せませんでした。
共に戦力外通告を受けた屋舗選手が巨人入りし、日本シリーズの大舞台でスーパーキャッチを見せ脚光を浴びる中、高木選手はひっそりと引退となったのです。
日本ハムでは着け慣れた3番ではなく、背番号16番でプレーしましたが、その番号はホエールズに入団した当時の番号でした。
種田仁選手
出身地 大阪府八尾市
投/打 右/右
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1990年~2001年)
横浜ベイスターズ(2001年~2007年)
埼玉西武ライオンズ(2008年)
タイトル等 オールスター出場3回・カムバック賞(2000年)
種田選手は、大阪・上宮高時代には超高校級スラッガーと騒がれた元木大介選手とチームメイトでした。
華やかなスター性のある元木選手に対し、種田選手はどちらかというと地味な存在でしたが、プロですぐ使えるのはむしろ種田選手の方だ、とも言われていたのです。
1989年のドラフト会議では念願の巨人からの指名を得られず落胆する元木選手を横目に、ドラフト6位で中日へ入団します。
下位指名となったのは評価が低かったからではなく、種田選手は大学進学が内定していたからで、入団条件は契約金が当時の1位指名選手クラスの4000万円、背番号は0番、とドラフト下位指名選手としては破格なものでした。
中日入団後は2年目の1991年に早くも一軍へ定着します。2年先輩の立浪和義選手と1・2番を打ち、また守備では二遊間を組みレギュラーとして活躍しましたが、鳥越祐介・福留孝介両選手らの入団により出場機会は年を追うごとに減少していきます。
プロ11年目となる2000年、後に代名詞となるガニマタ打法を採用。まずは代打で11打席連続出塁という日本記録を樹立すると出場機会が増えます。
1999年は43試合の出場に留まっていた種田選手でしたが、ガニマタ打法を取り入れた2000年は102試合に出場、打率も.314を記録、カムバック賞を受賞しました。
2001年、ベイスターズ森祇晶監督の強い要望で移籍します。一塁以外の内野は全て守れる器用さを買われ、ユーティリティープレーヤーとして活躍しました。
この年、ドラフト1位で入団してきた内川聖一選手や2003年入団の村田修一選手らと鎬を削り、2004年には規定打席に到達し打率.300、2005年には6番ないし5番を打ち、セカンドのレギュラーとして145試合に出場、打率.310 9本塁打61打点という好成績を残しました。
2006年、肘を故障し不振に終わると翌2007年には巨人から仁志敏久選手が移籍してきたことにより出番が激減。シーズンオフには戦力外通告を受けます。
2008年、埼玉西武ライオンズへ移籍しますが一軍出場は無し。この年限りで引退となりました。
草野球やバッティングセンターでガニマタ打法を真似している方をチラホラ見かけます。引退後は決して順調ではない種田選手ですが、ファンは種田選手を忘れてはいません。
梶谷隆幸選手
出身地 島根県松江市
投/打 右/左
プロ野球歴 横浜ベイスターズ~横浜DeNAベイスターズ(2007年~)
タイトル他 盗塁王1回・オールスター出場1回
梶谷選手は、島根県の開成高校の出身です。開成高校時代には甲子園出場も果たし、2006年の高校生ドラフトで3位に指名されて、ベイスターズに入団しました。
入団4年目の2010年、イースタン・リーグで盗塁王を獲った梶谷選手ですが、一軍出場は4年で27試合。2011年には一軍出場機会は無しに終わります。
プロ6年目の2012年、中畑清新監督の期待を集め、一軍に抜擢されますが80試合出場で打率は.179でした。遊撃手としても凡ミスが目立ち、半ば中畑監督が意固地になって起用しているのでは?とも思える状態でした。
2013年もシーズン前半までは前年同様の起用で、梶谷選手の成績も振るいません。守備でのポカも目立ち、ついにオールスター前には二軍へ降格させられました。
しかし、8月に戦線復帰するとバッティングが大爆発します。ほぼ8・9月の2か月で16本塁打を放ち、打率も.346を記録しました。ファンも半信半疑でのまま2014年シーズンを迎えます。
2014年、前年の活躍により背番号を63番から3番へ昇格させた梶谷選手は他球団の手厚いマークを潜り抜け打率.263 16本塁打72打点を記録しました。
この年から外野手に転向し3番打者として、ユリエスキ・グリエル選手が入団後はトップバッターとしてレギュラーを掴みました。さらに39盗塁で盗塁王を獲得。走攻守揃った、スタープレイヤーが誕生したのです。
しかし2018年、右肩を痛めた影響と死球が原因のケガで出場機会を大きく減らしてしまいます。翌2019年は右肩を手術した影響で完全復活とはならず、くすぶった2年を過ごしてしまいました。
背番号3番をつけた選手の傾向とは?
DeNAベイスターズの背番号3番は、他の球団と違って、平松選手を含んでピッチャーもつけてきたという異例の歴史があります。しかし、高木選手をはじめ、内野手が多くつけてきたという傾向が強い番号です。
ご紹介した種田選手も内野手、つけていたという事で、DeNAベイスターズの背番号3番は内野手という傾向がわかります。
梶谷選手も背番号63番時代は内野手でした。
⇒プロ野球の永久欠番と準永久欠番!球団ごとに意味と全選手をご紹介
当ブログの横浜DeNAベイスターズに関しての話題はこちらからどうぞ。
⇒横浜DeNAベイスターズの話題
野球に関する話題も多数お届けしています。よろしければ、ご覧になってみてくださいね。
⇒野球に関する話題はこちらからどうぞ
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。