こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
2019年シーズンオフ、東北楽天ゴールデンイーグルスは石井一久GMの下、積極的な戦力補強に乗り出しました。そして選手の補強だけではなく、複数の選手が背番変更しています。
その中で、多くの方が驚いた背番号変更がありました。それはオコエ瑠偉選手が入団時から背負ってきた背番号が9番から4番になった事です。
今回は、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号4番について特集します。歴代の全選手の紹介、4番をつけて活躍した3選手の経歴、選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号4を負った選手をご紹介
東北楽天ゴールデンイーグルスでは、2005年の球団創立以来、背番号4番を背負った選手は 阿部寿樹選手で5人目です。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
2005年~2013年 | 9年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 高須洋介選手 |
2014年~2016年 | 3年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 後藤光尊選手 |
2017年~2018年 | 2年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 岡島豪郎選手 |
2019年 | 1年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 空白 |
2020年~2022年 | 3年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | オコエ瑠偉選手 |
2023年~ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 阿部寿樹選手 |
初代4番の高須洋介選手が2005年から2013年まで9年間プレーしたので、イーグルスの4番の歴史の大半は高須選手が創り出したものとなっています。
野村克也監督から「必殺仕事人」というあだ名をもらい、その名に恥じることなくここぞという場面で無類の勝負強さを発揮した高須選手。未だにイーグルスの背番号4といえば、高須選手をイメージするファンの方も多いのではないでしょうか。
2代目背番号4はオリックスバファローズから移籍してきた後藤光尊選手。地元東北(秋田県)出身に加え、首位打者を獲得したこともある鉄平選手との1対1の交換トレードで獲得した選手ということもあり、期待を集めての入団でした。
移籍時に36歳ということもあり、フルシーズン出場というわけにはいきませんでしたが、レギュラー選手がケガをした時にはその穴埋めを的確に行う、とても頼りになるユーティリティープレーヤーとしてチームを助けました。
3代目の背番号4番は岡島豪郎選手です。
2012年ドラフト4位で入団した捕手で、入団時の背番号は27番でした。2013年、当時の星野仙一監督に直訴し出場機会を得ると結果を残し、見事レギュラーを獲得。この年のイーグルス日本一に大いに貢献しました。
2014年からは外野手登録となり、後藤選手の後を受けて2017年シーズンから背番号を4番に変更しましたが、この頃から激化したイーグルス外野手争いではケガもありやや遅れを取り始めてしまいます。
外野手登録ではあっても緊急事態用に捕手の守備練習を続けていた岡島選手は2019年シーズンから再び捕手登録に戻り、背番号も入団当初の27番に変更しました。
2019年、背番号4は空き番となり、2020年シーズンよりオコエ選手が着用しました。。
オコエ選手がジャイアンツに移籍した2023年からは、阿部寿樹選手が4番を受け継ぎました。
岩手・一関一高から明治大学でプレーし、大学時代は主力選手として活躍しました。を機にHonda入社3年目の2015年に中日ドラゴンズから5位指名を受けて入団しました。
入団3年ほどは低調な成績となりますが、入団4年目の2019年にはレギュラーを獲得し、一気にチームの主力選手になりました。
髭をたくわえた風貌がバーのマスターのようであることから「マスター」の愛称で親しまれてきましたが、2022年オフに、涌井選手とのトレードで楽天に電撃移籍することが発表され球界をざわつかせました。
歴代背番号4番の3選手のご紹介
次に、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号4番を背負った、高須選手、後藤選手、そして岡島選手を紹介したいと思います。
高須洋介選手
出身地 佐賀県伊万里市
投/打 右/右
プロ野球歴
近鉄バファローズ(1998年~2004年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2005年~2013年)
タイトル等 特になし
必殺仕事人として今なお多くのファンの印象に残っている高須選手、高校時代からの球歴を辿ってみましょう。
高校は石川県・金沢高校に進学。3年生の時にはセンバツと夏の甲子園どちらにも出場を果たしますが、ともに初戦敗退に終わります。夏の甲子園で対戦した甲府工高のエースは、後にイーグルスでチームメイトとなる山村宏樹選手でした。
大学は東都大学リーグの青山学院大に進みます。高須選手の1学年上には現在千葉ロッテマリーンズ監督の井口資仁選手を始め、沢崎俊和・倉野信次両投手、清水将海捕手がいる、黄金時代真っただ中のチームでした。
その中で高須選手はセカンドのレギュラーを確保、ショートを守る井口選手と二遊間を組み、更には打撃でも首位打者を獲得するなど攻守ともに活躍しました。
ちなみに、井口選手は福岡ダイエーホークスに、沢崎選手は広島東洋カープ、そして清水選手は千葉ロッテマリーンズにそれぞれ1位指名され、入団しました。1つの大学から同時に3人もドラフト1位選手を輩出したことになります。
これは1969年のドラフト会議で早稲田大が記録して以来、史上2例目のことでした。さらに、2010年のドラフトでは同じく早大から「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹選手の他、大石達也、福井優也両選手がドラフト1位で指名を受け、3例目となりました。
青学黄金世代で腕を磨いた高須選手も1997年のドラフト会議で近鉄バファローズから2位指名を受けプロ入りします。入団時に渡された背番号は4番。長年近鉄のレギュラーを務めてきた大石大二郎選手の後継者として期待の表れでした。
しかし、当時近鉄には水口栄二選手というレギュラーがいたことに加え、高須選手のケガも重なり、近鉄球団消滅までの7年間で定位置確保とはならず、水口選手との併用が続きます。
2001年近鉄最後の優勝時にも高須選手の1軍出場はわずか2試合に留まるなど水口選手に差を付けられつつありました。
2005年、選手分配ドラフトでイールグスに所属することになった高須選手、ここからその才能が遺憾なく発揮され始めます。
2005年3月26日、イールグス初の公式戦となった対ロッテ戦に2番・セカンドでスタメン出場した高須選手は、1回表清水直行投手から記念すべきイーグルス初安打を放ち、定位置を獲得しました。
2006年からは出場試合数が100試合を大きく超える年が増え、同時に勝負強いバッティングで注目を集め、時には3番打者をつとめるまでになりました。
特に凄かったのが2007年シーズンです。この年、自己最多となる130試合に出場し、規定打席にも到達した高須選手の打率は.283でした。
これはリーグ13位の成績でしたが、得点圏打率は何と.386!もちろんリーグトップ。打率よりも1割も得点圏での打率が高いのですから必殺仕事人というあだ名もぴったりの活躍でした。
2008年以降もレギュラーの座を守り続けますが、やはりケガがつきまとい、2009年のイーグルス初Aクラス入りのシーズンにはケガで67試合出場に留まってしまいます。
以降、ケガに加え、新加入する選手との定位置争いも勃発する中、プレーを続けていた高須選手ですが2013年に戦力外通告を受けました。
2014年にはBCリーグ・新潟アルビレックスに入団するも1年で退団、現役を引退しています。
MLB移籍前の松坂大輔投手や、鳴り物入りでファイターズに入団した斎藤投手を得意とし、他球団ファンにも強い印象を残した仕事人・高須選手の現役生活でした。
後藤光尊選手
出身地 秋田県南秋田郡八郎潟町
投/打 右/左
プロ野球歴
オリックスブルーウエイブ(2002年~2013年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2014年~2016年)
タイトル等 特になし
秋田県有数の進学校・秋田高校時代は投手として甲子園出場経験もある後藤選手、その後法政大に進学しますが中退、社会人野球・川崎製鉄千葉に入社しました。
ちなみに川鉄千葉の斎藤監督が秋田高校OBということもあるのでしょうか、このチームからは後藤選手の他に川邉忠義選手(元巨人他)、藤田太陽選手(元阪神他)という秋田県出身のプロ野球選手を輩出しています。
入社1年目の1998年には都市対抗で決勝戦に進出。惜しくも敗れてしまいますが、後藤選手は都市対抗における新人賞に該当する「若獅子賞」を獲得。シドニー五輪代表候補にも選出されるなど活躍していました。
2001年のドラフト会議でオリックスブルーウエイブからドラフト10巡目で指名を受けプロ入りをします。
ちなみにこの年のオリックスはドラフト15巡目まで指名を続け、15巡目では現役の体育講師である橋本泰由選手を獲得したり、契約金を支払わないという前提で選手を指名したりと独特のドラフト戦略が話題を呼びました。
ドラフト下位指名ではありますが、元五輪代表候補の実力は伊達ではなく、ルーキーイヤーの2002年シーズン、「6番・DH」で開幕スタメンを勝ち取りました。
翌2003年にはショートのレギュラーを獲得、また打撃でも.295 9本塁打をマークする活躍。2004年シーズンからは背番号を49番から1番に変更しました。
後藤選手の背番号1番は色々な話題を呼びました。
2005年、オリックスバファローズでプレーすることとなった後藤選手ですが、バファローズの背番号1番と言えば鈴木啓示氏の永久欠番です。鈴木氏が使用を承諾しましたが、復刻版ユニフォームで後藤選手が近鉄の1番を付けているのに違和感を示すファンもいました。
また、新監督に背番号を取り上げられたこともあります。
2007年からオリックスの指揮を執ったコリンズ監督が背番号1番の着用を希望し、後藤選手は24番に変更となりました。後藤選手が本意でなかったことはコリンズ氏が退団後すぐに背番号を戻したことからも伺えます。
2010年に残留前提にFA権を行使、複数年契約を結びオリックスで現役を終えるはずだった後藤選手でしたが、2013年のシーズンオフ、イーグルス・鉄平選手との交換トレードが成立、地元東北でプレーすることとなりました。
2014年、前年日本一を達成したチームの内野手メンバーは固定されており、唯一退団したマギー選手が守っていた三塁にはユーキリス選手が収まる予定となっていました。内野の全てのポジションを守れる後藤選手と言えども出番は限られそうだと判断し、外野練習も始めます。
しかし、ユーキリス選手は不振、銀次選手のケガなどもあり、その穴埋めとして内野手としてプレーをすることになります。翌2015年には4番打者も任され、規定打席にも到達しましたが、2016年いっぱいで現役を引退しました。
オリックス時代は内野ならどこでも守れる上に、全打順本塁打を達成するなどとにかく使い勝手のいい選手だった後藤選手。
全打順本塁打は2019年に同じイーグルスの島内宏明選手が達成してプロ野球史上11人目となりましたが、長い長い歴史の中でたった11人しか達成していない記録なのです。
打率は2割台後半、本塁打は10本前後をマークする打力と安定した守備力。これほどありがたい選手はいません。イーグルス移籍後もその特徴を活かし、日本一以降成績が落ちてしまったチームを救った、と言っても過言ではないでしょう。
岡島豪郎選手
出身地 群馬県邑楽郡千代田町
投/打 右/左
プロ野球歴 東北楽天ゴールデンイーグルス(2012年~)
タイトル他 特になし
群馬県の関東学園付属高時代から捕手だった岡島選手、高校時代に甲子園出場の経験はありませんでした。
大学は栃木県にある白鴎大に進学。1年生から試合に出場し、4年生時には主将に任命されます。3年生から正捕手となり、それまでは外野手として試合に出場していました。
ちなみに、白鴎大といえば現在北海道日本ハムファイターズの監督を務める栗山英樹氏が特任教授として籍を置いています。現在は休職扱いとなっていますので、監督退任後に再び教鞭を取るのかも知れません。
白鷗大学は、ヤクルトスワローズで活躍した飯原誉士選手が初めてドラフト指名されたのを皮切りに、福岡ソフトバンクホークスの高谷祐亮選手、岡島選手、そして阪神タイガースの4番打者・大山悠輔選手などプロ野球界で活躍する選手を輩出しています。
岡島選手は2011年のドラフト会議でイーグルスから4位指名を受けましたが、実は岡島選手はドラフト指名選手リストに載っていませんでした。それでも指名に至ったのは、元プロ野球選手である白鴎大・藤倉監督の推薦によるものでした。
当時のイーグルス監督は星野仙一氏。星野氏が藤倉監督からの情報を信じ、指名に踏み切りました。
同じ2011年のドラフトで島内宏明選手が6位で指名されていますが、これも星野監督が自身の母校・明治大の選手だから獲った、ということで指名ボーダーラインだったという趣旨を生前話されていました。
ドラフト指名が無かったかも知れない選手が活躍するのですから、野球は本当に面白いです。
2012年、プロ1年目のキャンプから1軍に抜擢されます。公式戦出場は6月からでしたが嶋基宏選手の控え捕手としてルーキーながら43試合に出場。更には2本のサヨナラヒットを放ったり、島内選手とのアベックホームランを打ったりと内容の濃い1年を過ごしました。
2013年、当初は前年同様2番手捕手の予定でしたが、嶋選手が好調ということもあり、出場機会を求めて外野手の練習も開始します。そして星野監督に「使って下さい!」と直訴すると7月からは1番打者に定着。規定打席には未到達ながら打率.323を記録しました。
岡島選手の好調さにつられるかのようにチームは快進撃を続け、ついに9月26日、球団創立9年目での初優勝を成し遂げ、更には勢いそのままに日本一まで駆け上がりました。
2014年には正式に外野手に転向。自己最多となる7本塁打を含む154安打、打率.283と活躍します。
しかし、2015年以降は開幕から2か月ほどは好調なものの、それ以降は不振となるシーズンが続いてしまいます。
2017年からは心機一転の意味合いを込めて背番号を27番から4番に変更しますが、7月22日のオリックス戦でファールフライを追いかけてフェンスに激突、左肩を痛めてしまいます。この時プレー続行が不可能となった岡島選手に代わって出場したのが、田中和基選手でした。
左肩のケガは重傷で、2018年以降のシーズンにも影響を及ぼします。2018年には田中選手が新人王を獲得しブレイク、同期入団の島内選手は4番打者に成長、さらに外国人選手やオコエ瑠偉選手、辰巳涼介選手などの台頭と岡島選手を取り巻く環境は一気に厳しくなってしまいます。
そして2019年。左肩の手術を行ったこともあり、一軍戦未出場に終わってしまいました。
2019年シーズンからは生き残りを賭けて捕手に再転向。背番号も27番に戻しました。
背番号4番をつけた選手の傾向とは?
2020年から背負うオコエ選手で4人目という背番号4番、球団創立から15年で9人もの選手が背負った背番号3番とは対照的です。
日本では4という数字が好まれないので、他の球団では外国人の選手がつける傾向にあります。しかし楽天ゴールデンイーグルスの場合は、人数が少ないとはいえ、全て日本人の選手がつけてきました。
つけてきた4選手は野手である事から、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号4番は、日本人の野手がつけてきたという傾向があります。
高須・後藤両選手は内野手でしたが、岡島選手は外野手としてこの番号を背負いました。そしてオコエ選手は、岡島選手に続いて外野手です。
⇒東北楽天ゴールデンイーグルスの話題
そして、背番号の話題を始めとした野球の豆知識に関してはこちらをどうぞ
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