横浜DeNAベイスターズの背番号10番!歴代10番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

大物選手が移籍してくると、その選手のトレードマークとなっているような背番号を譲る、という光景が見られることがあります。

1993年当時、ベイスターズの背番号10番をつけていた有働克也選手は、読売ジャイアンツから駒田徳広選手がFA移籍してくると、有働選手は背番号を駒田選手に譲り、自身は14番に変更しました。

敵として同リーグで戦ってきた駒田選手が味方となることにもファンは戸惑いましたが、何も有働選手から10番を奪わなくても・・・というファンの声は駒田選手にも届いており、豪胆そうに見えて実は繊細な駒田選手が本領を発揮するのに時間がかかりました。

今回は、有働選手、そして駒田選手が着けたベイスターズの背番号10番について特集します。




歴代の背番号10番を背負った選手をご紹介

ホエールズ~ベイスターズの背番号10番の歴史は、チームのプロ化に伴い、自身もプロ野球選手となった、森雅功選手からのスタートします。

元々は社会人野球の1チームに過ぎなかった大洋漁業ですが、1950年の2リーグ制開始に伴いチーム数が増えたことにより選手の奪い合いが激化。その波は社会人野球にも飛んできました。

選手を多数引き抜かれた大洋は、ならばとばかりに自チームをプロ化し、選手の移籍を阻止したのです。

2代目・小林恒夫投手は松竹ロビンスから移籍した投手です。通算成績が46勝110敗。64もの負け越しは不名誉ですが、プロ野球記録でもあります。

また、松竹時代の1951年8月1日には対大阪タイガース戦で9回完投勝利を挙げますが、その投球内容は被安打14本、与四球5個、失点自責点とも12点という凄まじいものでした。

それでも打線が19点を取り勝ち投手になったのですから幸運というほかありません。ちなみに、この試合で岩本義行選手がプロ野球記録として今なお残る1試合4本塁打を記録しました。

3代目・枝村勉選手も移籍組です。大映スターズではオールスター出場経験もある外野手でしたが、ホエールズ移籍後はほぼ活躍の場は無く、チームの初優勝を見届けて1960年限りで引退しました。

4代目はフランシス・アグウィリー選手です。外国人選手ながら、内外野どこでも守れるユーティリティープレーヤーとして活躍しました。

ホエールズで3年プレーした後、西鉄ライオンズに2年間在籍、その後再びホエールズで2年、最後は阪急ブレーブスで1年間現役生活を送りました。アギー、アグリーという登録名でプレーしたことでも知られています。

5代目は1966年ドラフト1位入団の岡正光選手です。貴重な左腕として期待され入団したものの実は肘を故障しており、3年間の現役生活でした。

6代目・ディック・スチュアート選手はメジャー通算227本塁打、打点王も獲得したことのある一流のメジャーリーガーです。

1967年にホエールズ入りすると、打率.280 33本塁打を記録。さすがの貫録を見せますが2年目には成績がぐっと下がり解雇となりました。

7代目はスタン・ジョンソン選手です。左打ちの外野手で、メジャー経験もあまりない選手でした。日本でもわずか5本塁打に終わり1年で去ります。

8代目・福嶋久晃選手は強打を武器に、ドラフト外入団から正捕手までのし上がった選手です。1975年に10本塁打すると翌1976年には自己最多の18本塁打。以降1980年まで2桁本塁打をマークしています。オールスターにも3回選出されました。

長女は賞金女王にも輝いたプロゴルファー・福嶋晃子選手です。次女・浩子選手もティーチングプロの傍らツアーに出場していました。

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9代目は木田勇選手です。1980年に日本ハムファイターズに入団、いきなり22勝8敗4セーブ、防御率2.28 225奪三振で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振を記録、新人王はもちろんのこと史上初となる新人でのMVP獲得と華々しいデビューを飾った左腕です。

翌1981年も10勝は挙げたものの防御率は4.76まで悪化、1982年以降は2桁勝利に届かず、成績は尻すぼみという状態の中、1986年にホエールズへトレードされました。

移籍1年目こそ8勝を挙げたものの、以降3年間で2勝のみに終わり、1990年には中日ドラゴンズに移籍。未勝利に終わると現役を引退しました。




木田選手との交換トレードでホエールズに入団、そのまま背番号10番を引き継いだのは加茂川重治選手です。

元々は巨人の投手だった加茂川選手は1988年のシーズンオフ、西本聖投手と共に中尾孝義選手との交換トレードで中日へ移籍しました。

木田選手との交換トレードで加茂川選手が指名されたのは、当時のホエールズ監督・須藤豊氏が巨人二軍監督時代に鍛えた加茂川選手の力量を買ってのこと。しかし、在籍2年間で1勝も挙げることなく引退となりました。

11代目は前項でご紹介した有働克也選手です。駒田選手に10番を譲るまで、2年間つけていました。

12代目はマシンガン打線の5番打者・駒田徳広選手です。1994年にベイスターズへFA移籍したものの、チームに今一つ馴染み切れていない印象だった駒田選手がようやく本領を発揮したのが1998年、横浜日本一の年でした。

13代目は佐伯貴弘選手でした。「メカゴジラ」の愛称で親しまれ、勝負強い打撃でマシンガン打線の6番を「右の中根・左の佐伯」として担った選手です。

マシンガン打線解体後は4番打者を務め、若手選手台頭後には代打の切り札を務めるなど、最後まで打撃で貢献しました。

14代目はマイク・ウッド選手です。26試合に先発と一年間ローテーションを守ったものの、成績は3勝12敗、防御率4.69。1年で退団しました。

15代目・ライアン・グリン選手は北海道日本ハムファイターズから移籍してきた右腕投手です。2006年に東北楽天ゴールデンイーグルスでNPBデビューを果たすと、2007年~2008年は北海道日本ハム、そして2009年からはベイスターズでプレーしています。

2008年シーズンは7勝14敗でリーグ最多敗戦を記録してしまいます。移籍で心機一転といきたかたったのですが、ベイスターズでも3勝15敗とまさかの2年連続リーグ最多敗戦。両リーグをまたいでのそれはもちろん史上唯一の珍記録です。

16代目は橋本将選手です。千葉ロッテマリーンズ時代は里崎智也選手との併用が続き、共にリーグ戦を戦った福岡ソフトバンクホークス・王貞治監督からは「橋本はもっと打てる選手。もったいない」と言わしめたほどの打撃の持ち主です。

FA移籍したものの成績は奮いませんでした。

17代目・鶴岡一成選手は元々ベイスターズの捕手で、トレードで巨人へ移籍したのちFAで古巣へ復帰した選手です。2006年に真田裕貴選手との交換トレードで巨人入りすると、阿部慎之助選手の2番手捕手として活躍、日本シリーズでもプレーしました。

2011年オフにFA権を取得すると古巣・ベイスターズが獲得。2012年からは正捕手として働き、2013年にはチームをCS出場へと導きます。

しかしその2013年オフ、今度は久保康友選手のFA移籍による人的補償として阪神タイガースへ移籍。正捕手格の移籍はファンに衝撃を与えました。

18代目はユリエスキ・グリエル選手です。キューバ出身のグリエル選手は2014年に入団、62試合の出場ながら打率.305 11本塁打とさずがはキューバ代表選手、来年が楽しみだという評価でした。

ところが2015年はケガを理由に一向に来日せず、連絡もおぼつかない有様で4月早々に契約解除。翌2016年には亡命しアメリカへ渡り、ヒューストン・アストロズと契約しました。

19代目は現役の戸柱恭孝選手です。2016年、ルーキーながら開幕スタメンを務めるなど期待を集めてきた戸柱選手ですが、2018年シーズン途中にオリックスバファローズから伊藤光選手が移籍してくると出番を奪われてしまいます。

しかし、そのひたむきな練習姿勢は多くのファンに支持されており、戸柱選手が正捕手として再びプレーすることを望んでいるファンも多くいます。




歴代背番号10番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、横浜DeNAベイスターズの背番号10番をつけた選手のうち、私が印象深い駒田選手、佐伯選手、そして戸柱選手をご紹介したいと思います

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駒田徳広選手

生年月日  1962年9月14日
出身地   奈良県磯城郡三宅町
投/打   左/左
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1981年~1993年)
横浜ベイスターズ(1994年~2000年)
タイトル等 ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞2回・オールスター出場6回

駒田選手は2020年現在、巨人の生え抜き選手としてFA権を行使して国内他球団に移籍した唯一の選手です。宣言に至った事情をご紹介しましょう。

1993年オフ、この年から導入されたフリーエージェント(FA)制度をめぐり、球団側も手探りで対応に当たっていました。

今でこそ権利を持つ選手との話し合いは常識ですが、この年、巨人首脳は選手が宣言をするまではFAについて当該選手と話し合ってはいけないと勘違いしていました。

その球団の対応に、エース級の槙原寛己選手は「FA権について球団側から何の話もない」と態度を硬化させ、移籍も辞さないと表明、一大騒動となります。

一方、シーズン中から中畑清打撃コーチとの確執が噂されていた駒田選手に対しては、球団首脳も、長嶋茂雄監督までも来年度の処遇について明確な指針を表明しないまま。

これは当時中日ドラゴンズに在籍していた落合博満選手がFAでの巨人入りが濃厚となっていたため、ポジションが被る駒田選手に対し、「出ていきたければ出ていけばいい」という、戦力外通告に等しい評価が下されていたためでした。

結局、駒田選手はベイスターズに移籍するのですが、これにあたりベイスターズ側は高木豊・屋舗要両選手を筆頭に主力級6選手を解雇します。

チームの顔というべき選手を放逐してまで、昨日の敵、しかもホエールズ時代から最大の敵だった巨人から選手を迎え入れる必要があるのか。ファンは駒田選手のベイスターズ入りに対し、一枚岩ではありませんでした。

1994年、駒田選手は打率.284 13本塁打68打点という可もなく不可もなく、という成績を残します。翌1995年には打率.289 6本塁打66打点という成績で「駒田獲得は正解だったのか」という声は、日に日に厳しさの色合いが強くなっていきます。

1996年に打率.299、1997年には打率.308、81打点を記録し、徐々に駒田選手を取り巻く風向きが変わり始めた1998年、石井琢朗選手が「駒田さんの持つ経験をもっと話して欲しい」とコメントしたところ、チームメートは皆賛同します。

移籍組ながらキャプテンに就任した駒田選手はようやくのびのびとプレー。打率は.281だったものの、要所要所は優勝経験者としてチームを牽引し、38年振りのリーグ制覇に大きく貢献。日本シリーズでも優秀選手賞に選出される猛打で日本一獲得に力を発揮しました。

2000年、2千本安打達成を手土産に引退しました。上記の経緯があるので未だに「ベイスターズOB」と名乗るのをためらうという駒田選手。

しかし、1998年、堂々の「ハマの頼れる5番打者」だったこと、その移籍が正しかったことに異論を挟むファンは、もはやいません。




佐伯貴弘選手

生年月日  1970年4月18日
出身地   大阪府大阪市東成区
投/打   左/左
プロ野球歴 
横浜ベイスターズ(1993年~2010年)
中日ドラゴンズ(2011年)
タイトル等 オールスター出場3回

佐伯選手は、大阪商業大時代、ドラフト指名され「タテジマ」のユニフォームを着ている夢を見たといいます。その夢の通り、阪神タイガースに指名されるものと思っていたら、まさかの横浜ベイスターズ2位指名。同じタテジマはタテジマでも・・・複雑な表情を見せつつプロ入りしました。

1年目から55試合に出場。2年目には早くも2桁本塁打を達成しました。3年目の1995年にはファンによる組織票によりオールスターファン投票に選出されます。

辞退も考えたものの、中日落合博満選手に「お前を見たいと思って入れた人もいるんだから」と出場を促され、「一番いい席でオールスターを見てきます」と出場を決めました。

翌1996年には打率.290 6本塁打59打点で規定打席に到達。日本一を達成した1998年には中根仁選手との併用ながら108試合に出場、打率.289 9本塁打55打点と活躍しました。

1999年には規定打席に到達し打率.309をマークします。駒田選手退団後の2001年からは背番号10番とファーストのポジションを受け継ぎ、全140試合に出場、打率.302 14本塁打73打点と好成績を残しました。

打順も6番から5番、新外国人選手との兼ね合いもある中で2005年には全146試合で4番を務め、打率.272 19本塁打88打点を記録します。頼れる主砲として、低迷期のベイスターズを支えました。

ケガ明けの2007年、心機一転として背番号を10番から入団時の26番に戻しました。この年は2004年以来の打率3割を記録します。以降は代打、新外国人選手の穴埋めといった役割を担いますが、2010年、出場試合数が10試合に留まったことを受け戦力外通告を受けます。

中日に移籍するものの活躍はできず1年で引退。そのまま同僚だった谷繁元信監督の元コーチに就任。谷繁監督が休養に入った2016年8月、佐伯コーチも同時に休養、そのまま退団となりました。




戸柱恭孝選手

生年月日  1990年4月11日
出身地   鹿児島県肝属郡肝付町
投/打   右/左
プロ野球歴 横浜DeNAベイスターズ(2005年~)
タイトル他 特になし

戸柱選手は、鹿児島・鹿屋中央高から駒沢大、そして社会人・NTT西日本を経て2015年ドラフト会議でベイスターズから4位指名を受けました。同期1位は駒大の3年後輩・今永昇太選手です。

ルーキーイヤーの2016年、オープン戦から積極的に起用され、公式戦でも開幕スタメン捕手に選ばれます。開幕3戦目の広島東洋カープ戦では初ホームランを記録、124試合に出場し、いきなりレギュラー格の捕手となりました。

2017年は高城俊人・嶺井博希両捕手との併用となりますが112試合に出場、打率は.214ながら9本塁打55打点、そして得点圏打率.316をマークするなど打撃でも活躍しました。8番が定位置でしたが好調な打撃を受け、時には6番打者として出場しました。

2018年は一転して打撃不振に陥り3番手捕手に降格。さらにオリックスバファローズから伊藤光捕手がトレード移籍すると一軍出場機会すらなくなりわずか25試合の出場に留まります。

2019年も伊藤・嶺井両捕手の後塵を拝する第3の捕手扱いながら、伊藤選手がケガをした時には試合に出場。45試合に出場したものの、盗塁阻止率が.120という低さが課題として残りました。

キャッチング、リード、そしてキャッチング、リード、そしてギリギリのコースを審判にストライクと判定させるための技術であるフレーミングにも長けています。大学1年時に捕手へ転向したという経緯からキャッチャーフライを捕る技術に不安があったものの練習を重ね克服しました。

残る課題は捕手にとって一番重要な盗塁阻止率の向上。肩の強さだけでどうなうものでもないこの難問を、きっと戸柱選手ならば克服してくれることでしょう。なぜなら、戸柱選手の向上心、謙虚さは誰もが認めるところだからです。




背番号10番をつけた選手の傾向とは?

ホエールズ~ベイスターズの背番号10番には「リーダーの番号」という印象があります。

ホエールズで長く正捕手格を務めた福嶋選手の影響でしょうか、移籍選手や外国人選手に場当たり的に着けさせる場合もあるものの、長く10番を背負っている選手には主役級ではないものの脇役としてしっかりとチームを支える。言わば精神的支柱的存在の選手が着用している番号と言っていいでしょう。

駒田選手は移籍組ながら、前述した通りキャプテンを任されています。

戸柱選手は大卒社会人を経て、ドラフト4巡目という下位での入団。それでも背番号10番を贈った球団首脳には「リーダーとなって欲しい」という願いが見え隠れしてるような気がしてなりません。

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おわりに

今回は、横浜DeNAベイスターズの背番号10番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

19代前の10番である戸柱選手は、伊藤選手に大きく差をつけられていることは否めません。しかし、それでもファンは戸柱選手を見放すことはないでしょう。

一見コワモテな戸柱選手。あだ名の候補は「ハマの金剛力士像」。チームの危機を救う、文字通り「柱」として、その存在に熱い視線が注がれています。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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