広島東洋カープの背番号8番!ミスター赤ヘルもつけた歴代8番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

1975年10月15日、後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ戦。お荷物球団と言われ続けた広島東洋カープが、創設25年目にして初のリーグ優勝を決めました。

その興奮の中、一人の選手が人目を憚ることなく少年のように泣きじゃくっていました。選手の名は、広島県出身でミスター赤ヘルこと山本浩二選手です。

この優勝を足がかりに、広島東洋カープは徐々に強豪チームの仲間入りを果たしていきました。

今回は、ミスター赤ヘル山本浩二選手もつけていた、広島東洋カープの背番号8番を特集します。歴代の8番の選手や特に印象深い3選手、さらに8番をつけた選手の傾向にも触れますので、楽しみにして下さいね。




歴代の背番号8番を背負った選手をご紹介

広島東洋カープの背番号8番は、6人の選手と1人の監督に受け継がれてきました。古い順にご紹介していきます。

     
年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年0.5年広島カープ萩本伊三武選手
1950年0.5年広島カープ箱田義勝選手
1951年~1957年7年広島カープ長持栄吉選手
1958年~1967年10年広島カープ大和田明選手
1968年~1970年3年広島東洋カープ山内一弘選手
1971年~1986年16年広島東洋カープ山本浩司(浩二)選手
1987年~2000年14年広島東洋カープ永久欠番
2001年~2005年5年広島東洋カープ山本浩二監督
2006年~広島東洋カープ永久欠番

初代・萩本伊三武選手は「もう一つのプロ野球」と言われた国民リーグ・結城カッブス出身の内野手兼外野手でした。

国民リーグは、1936年に設立された日本野球連盟(現在の日本野球機構(NPB)の前身です。以下野球連盟)とは別に、プロ野球に参画しようという有志が1947年に結成したのが国民野球連盟(通称国民リーグ)でした。

国民リーグは、興業をめぐるトラブルが頻発します。さらに国民リーグのスポンサーの多くは戦後一儲けした商売人がほとんどで、「道楽で野球チームが持てるほど金が余っている」と国税局に目を付けられてしまいます。

査察が入るなどした結果、わずか1年で国民リーグは解散しました。萩本選手は、公式戦出場記録なしで引退しています。

2代目は箱田義勝投手でした。背番号24番から8番へ変更後、翌1951年には23番へ再変更しています。わずか2試合に登板したのみで引退しており、目立った活躍は出来ませんでした。

3代目は長持栄吉選手です。第二次世界大戦で空母「翔鶴」に乗艦、真珠湾攻撃に参加した経歴を持つ野球選手です。

戦後の1946年にセネタース入りして外野手として活躍し、大洋ホエールズを経て1951年カープへ入団しました。ファイト溢れるプレーの他、スライディングキャッチや回転キャッチなどのプレーを披露し、人気を集めました。

4代目は大和田明選手です。元々は西鉄ライオンズの捕手でしたが、激しい気性が当時の三原脩監督に疎まれ、カープへトレードされます。

カープでは外野手としてプレーしました。4番打者を務め、1959年には当時の球団新記録となる23本塁打を記録し、長く中心打者として活躍されました。

5代目は山内一弘選手です。毎日オリオンズでは首位打者1回、本塁打王2回、打点王は4回も獲得した不動の4番打者でした。

1963年オフ、「世紀のトレード」で阪神タイガースに移籍したものの、期待通りの成績とは言い難く、1968年からはカープに移籍します。

山本浩司(浩二)、衣笠祥雄両選手ら若手選手に対し「生きた見本」として強烈な印象を与え、成長を促したという意味で、カープの功労者と言える存在です。

6代目は山本浩二選手です。1969年、カープ入団時の背番号は27番でしたが、山内選手の引退した翌年の1971年から8番を受け継ぎました。

1986年、5回目の日本シリーズ出場を花道に引退した際に、広島球団はその功績を称え、山本選手の背番号8番を永久欠番としました

7代目は山本浩二監督です。2001年、2度目の監督就任に際し、15年ぶりに背番号8番が復活。ファンを大いに喜ばせました。

1989年から1993年までの第1次監督時代は背番号88番でしたが、2001年に再び監督に就任すると自身の永久欠番である8番を着用します。

この前年に読売ジャイアンツ・長嶋茂雄監督が背番号を33番から現役時代の3番に変更しており、相次ぐ往年の背番号復活はファンを大いに楽しませてくれました。

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歴代背番号8番のうち、印象深い3選手のご紹介

広島東洋カープの背番号8番をつけてきた選手のうち、印象深く思う大和田選手、山内選手、そして山本選手をご紹介したいと思います。

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大和田明選手

生年月日  1934年3月21日
出身地   茨城県水戸市
投/打   右/右
プロ野球歴
西鉄ライオンズ(1955年~1957年)
広島カープ(1958年~1967年)
南海ホークス(1968年)
タイトル等 ベストナイン1回・オールスター出場4回・サイクルヒット達成1回

茨城県人の気質を表す言葉として「水戸っぽ」という言葉があります。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の父、徳川斉昭に代表されるようにとにかく一本気で怒りっぽく、それでいて義理人情に厚く、忠誠心は高い。

かつて週刊ベースボールで「オレが許さん!」というコラムを連載、球界に苦言を呈し続けた豊田泰光氏も茨城県出身の「水戸っぽ」らしい無骨さで人気を集めていました。

豊田選手と同じ茨城県出身の大和田選手は、豊田氏から遅れること2年、1955年に西鉄ライオンズへ入団しました。当初は捕手を務めていたが、西鉄の選手層は厚く、また水戸っぽらしい気性の激しさが三原脩監督に疎まれてしまいます。

転機はプロ3年目の1957年オフです。西鉄・鵜飼道夫投手をトレードで獲得しようと福岡に乗り込んでいたカープ・白石勝巳監督と大和田選手がたまたまスナックで会い、話し合いの結果、カープ移籍が決まったのです。

大和田選手は入団会見で「自分は三原監督に嫌われ西鉄を追い出された。しかし今に見ていろ、必ず見返してやる!」と宣言しました。その言葉に嘘は無く、カープでは外野手に転向し打者に専念すると才能が開花します。

移籍初年度から5番打者として14本塁打を放つと、翌1959年には4番を打ちチーム記録となる23本塁打をマークしました。同年6月20日の大洋ホエールズ戦ではサイクル安打を達成、オールスターにも出場しました。この年はベストナインにも選ばれています。

その後も4番を中心にクリーンナップを担い、4年連続2桁本塁打を記録するなどカープの主砲として活躍しました。オールスターには4回選出されるなど人気・実力とも兼ね備えた選手へと成長、見事に西鉄を、三原監督を見返してみせたのです。

男気溢れる言動と、選手としての頼もしさからカープ時代のチームメートが付けたあだ名は「ボス」。西鉄在籍3年間で2本塁打しか打てなかったのに、カープでは10年間プレーし143本塁打をかっ飛ばしました。

現役最後の1年は南海ホークスでプレーし、引退します。引退後はゴルフのレッスンプロの資格を取得されました。




山内一弘選手


*写真は阪神タイガース時代です。

生年月日  1932年5月1日
出身地   愛知県一宮市
投/打   右/右
プロ野球歴
毎日オリオンズ~毎日大映オリオンズ(1952年~1963年)
阪神タイガース(1964年~1967年)
広島東洋カープ(1968年~1970年)
タイトル等 首位打者1回・本塁打王2回・打点王4回
      MVP1回・ベストナイン10回・オールスター出場16回
      野球殿堂入り(2002年)

山内選手は、パ・リーグの毎日オリオンズで12年プレーし、1957年に打率.331で首位打者を獲得したのを含め、3割超えは8回を数えます。2度の本塁打王と打点王には4回輝き、3冠王に最も近い打者と言われた、リーグを代表する強打者でした。

1963年シーズンオフ、突如阪神タイガースのエース・小山正明投手との交換トレードが成立します。このトレードは「世紀の大トレード」と呼ばれ、球界は騒然となりました。

その衝撃度は現在のNPBに置き換えると、読売ジャイアンツ・菅野智之投手と埼玉西武ライオンズ・山川穂高選手がトレードされたようなものと例えれば、衝撃度がお分かりいただけるかと思います。

阪神移籍後はナイターが増え、眼が悪かった山内選手は苦戦、プレーした4年間で一度も3割をクリアできずに終わります。しかし、山内選手の練習に取り組む姿勢や試合での態度は若トラたちに大きな影響を与えました。

1968年、カープの根本陸夫監督に請われ移籍します。ちょうど山本浩司・衣笠祥雄両選手を筆頭に水谷実雄、三村敏之両選手らの若手が台頭し始めたチームにあって、山内選手は格好のお手本でした。

この年は全試合に出場を果たします。6年振りに打率3割超えとなる打率.313をマーク、巨人のONに次ぐ打撃ベストテン3位に入りました。

またホームランも21本、69打点を記録し、ベテラン健在を見せつけます。ベテランと若手がかみ合ったチームは創立以来初のAクラス・3位に入りました。

1969年は自身の故障もあって出番が減少、1970年には3番・山本浩司、4番・山本一義、5番・衣笠のクリーンナップが定着します。若手の確かな成長を見届けた山内選手はこの年限りでユニフォームを脱ぎました。

引退後はコーチ・監督として引く手あまたとなります。中日ドラゴンズ監督時代に優勝を争っていたカープの高橋慶彦選手が悩んでいる様子を見るや居ても立っても居られず指導した、というのは有名なエピソードです。

付いたあだ名は「かっぱえびせんコーチ」。バッティングの話をし出すと止まらなくなる様子を、お菓子のCMコピーになぞらえものです。

その打撃論は3冠王3回の大打者・落合博満選手をも唸らせるもので、日本人選手だけでなく外国人選手にも熱血指導は止まりませんでした。

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山本浩二選手

生年月日  1946年10月25日
出身地   広島県広島市佐伯区
投/打   右/右
プロ野球歴 広島東洋カープ(1969年~1986年)
タイトル他 首位打者1回・本塁打王4回・打点王3回
      MVP2回・ベストナイン10回・オールスター出場10回
      野球殿堂入り(2008年)

カープ初優勝の立役者である山本選手、しかしその歩みは意外なほどのんびりしたものでした。

1969年に念願のカープ入りを果たすと、さっそく「6番・センター」で開幕からスタメンで起用されます。この年打率.240 12本塁打40打点という可もなく不可もない成績で終えました。

プロ6年目の1974年まで打率3割超えはなし、本塁打も最高で28本と、生涯成績と照らし合わせるとそのスロースターターぶりがお分かりいただけるかと思います。

1975年も当初は3番を打ち、衣笠選手が4番打者に昇格すると山本選手は5番を受け持ちます。しかし、6月19日の対ヤクルトスワローズ戦から山本選手が4番に座ると、シーズン終了までその座を明け渡さず、そのまま不動の4番打者となりました。

最終的に打率.319 30本塁打84打点を記録し、首位打者を獲得しました。チームを牽引し続けチームは悲願の初優勝を果たし、山本選手はMVPに選出されました。

1975年終了時点で通算146本塁打を記録していましたが、法政大の同期で阪神タイガースの主砲となっていた田淵幸一選手は、この時点で通算220本塁打で本塁打王も1回獲得し、水をあけられた格好でした。

しかし、山本選手の円熟期は30代に入ってからで、30歳で迎えた1977年シーズンに初の40本超えとなる44本塁打をかっ飛ばすと、翌1978年にも44本塁打で念願の本塁打王を獲得します。

チームが悲願の日本一に輝いた1979年は42本塁打113打点で初の打点王、さらに1980年は44本塁打112打点で2冠を獲得します。チームは2年連続日本一となり、山本選手は再びMVPに選出されました。

1981年は2年連続で本塁打王と打点王の2冠を奪取するなど、目覚ましい活躍を見せます。そして、1977年から記録した5年連続40本塁打以上は、山本選手の他NPBでは王貞治選手しか記録していない大記録です。

プロ8年目からの7年間で記録した本塁打は最初の7年の倍近い270本。この時点で通算434本塁打だった田淵選手に対し、山本選手は416本塁打と一気に差を詰めました。

1985年、8年連続30本塁打が途切れ、24本塁打に終わると山本選手限界説が囁かれ始めます。39歳という当時としては大ベテランに相当する年齢に加え、前年の1984年限りで田淵選手が引退したこともあり、「次は山本選手か」という風潮が流れました。

1986年、そんな声に反発するかのように前年を上回る27本塁打を放ち、チームを優勝へと導きます。しかし、536本目の本塁打をヤクルトスワローズのイキのいい若手左腕・矢野和哉投手から放った時、山本選手は現役引退を決意していました。

引退の花道となった1986年の日本シリーズ・対西武ライオンズ戦です。第1戦の9回表、0-2から小早川毅彦選手がホームランを放つと、続く山本選手も東尾修投手のウイニングショットであるスライダーを狙いすまして同点アーチ!試合を引き分けに持ち込みます。

このシリーズは、カープが第2戦から3連勝し一気に王手を掛けますが、第5戦、工藤公康投手のサヨナラヒットで流れが変わり、西武が4連勝し日本一を勝ち取りました。

史上初となった第8戦までもつれたシリーズは、山本選手の引退を少しでも先延ばししようという野球の神様のいたずらだったのでしょう。そして、8戦まで行ったことで舞台は広島市民球場に戻ったのも神様の演出ではなかったのでしょうか。

試合は西武ライオンズの勝利となり、カープの日本一はなりませんでした。試合終了後、万雷の「浩二コール」とともに胴上げされ、40歳で現役を終えました。

1986年の引退会見で「広島に生まれ、カープに育てられ、優勝も経験できた。山本浩二は幸せ者でした」と語りました。幸せな山本選手と共に時間を過ごしたファンは、もっと幸せ者だったことは言うまでもありません。

通算536本塁打に231盗塁。500本塁打と200盗塁を達成しているのは他に同僚だった衣笠祥雄選手と張本勲選手しかいない大記録です。

野球選手を評価する指標の一つに「5ツールプレイヤー」というものがあります。主にMLBで使用されているもので、ミート、長打、走塁、守備そして送球の5つの能力が一定基準を満たしている選手を指します。

NPBの現役選手では東京ヤクルトスワローズ・山田哲人選手や福岡ソフトバンクホークス・柳田悠岐選手らが該当するでしょう。

山本選手も足が速く、プロ2年目から11年連続で2桁盗塁を記録しています。また、大学1年までは投手を務めていたこともあり強肩で鳴らしていました。

山本選手こそが元祖NPBの5ツールプレイヤーと言えるでしょう。

引退後は2度カープ監督に就任した他、2012年には野球日本代表・サムライジャパンの監督も務めました。




背番号8番をつけた選手の傾向とは?

広島東洋カープの背番号8番は、山本浩二選手の番号であると言っても過言ではありませんね。輝かしい成績を残し、永久欠番にもなったので、異論はないかと思います。

背番号8番をを山本選手が受け継いだのは入団3年目、1971年のことです。変更当時、「山本選手に背番号8番は荷が重い」と評されていました。変更前年の1970年、22本塁打こそ放っていたものの、打率は.243だったからです。

変更初年度は打率.251 10本塁打52打点という数字だけを見れば、確かに8番を与えるのはちょっと早すぎたのでは?と思ってしまいます。

しかし、結果はご存知の通りでした。

という事で、広島東洋カープの背番号8番の傾向は、山本浩二選手そのものです。

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おわりに

今回は、広島東洋カープの背番号8番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?カープの8番は山本浩二選手である、そう言い切れますね。

山本選手を語るとき、大卒選手として史上最多の通算536本塁打に注目が集まりますが、走攻守揃っていたんだよ、と後世に伝えることは、山本選手から幸せを分けてもらった者の務めではないでしょうか。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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