阪神タイガースの背番号10番!唯一10番をつけた初代ミスタータイガースをご紹介

背番号の意味

こんにちは、みっつです。

ミスター・タイガース

どこの誰かが指定したわけでもなく、ファン同士の共通認識として表現されるこの称号は、掛布雅之選手の引退以降は空位とされています。

田淵幸一選手がコーチとしてタイガースに復帰し、改めて田淵選手が3代目と認定され、掛布選手は4代目とするのが公式見解となりました。

初代は藤村富美男選手、そして、2代目は村山実投手です。実は阪神タイガース背番号10番は藤村選手以外、誰も付けることなく、永久欠番となっています。

今回は阪神タイガースで唯一背番号10番を背負った、藤村選手の足跡をご紹介したいと思います。




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阪神タイガース唯一の10番・藤村選手の経歴

前段でお話した通り、タイガースで背番号10番を使用したのは藤村選手しかいません。他球団の永久欠番を見てもこのような例はなく、そういった意味でも藤村選手は貴重な存在と言えるでしょう。

1936年、タイガース創設と同時に入団し背番号10番をもらいます。1938年秋シーズン終了後に入隊。1942年に復帰し、1958年に引退するまで背番号は変わりませんでした。

入団時のポジションは投手。戦時中で人手不足ということもあり野手としてもプレー、主に二塁手を務めました。これは当時として珍しいことではなく、巨人の川上哲治選手も投手として登板しながら野手としても試合に出ています。戦後は打者に専念しました。

では、最初で最後の阪神タイガースの背番号10番、初代・ミスター・タイガースの藤村選手をご紹介していきます。


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生年月日  1916年8月14日
出身地   広島県呉市
投/打   右/右
プロ野球歴
大阪タイガース~阪神軍~大阪タイガース(1936年~1938年、1943年~1956年、1958年)
タイトル等 MVP1回・首位打者1回・本塁打王3回・打点王5回
      ベストナイン6回・野球殿堂入り(1974年)

藤村選手は広島県呉市の出身です。

旧制呉港中学校時代には春夏合わせて6回甲子園に出場を果たしています。「甲子園の申し子」と言われ、大変な人気を誇りました。藤村選手の登板時、最後列で人垣が邪魔で見られない人のために空箱を貸す「空箱屋」が大繁盛したそうです。

4年生時の1934年夏の大会では全国制覇を達成し、5年夏の大会では1試合19奪三振を達成しています。これは2012年夏、桐光学園高・松井祐樹選手に更新されるまで77年間も甲子園最多記録でした。

ちなみに、藤村選手の息子さん二人とお孫さん三人もそれぞれ甲子園に出場しています。2000年夏の甲子園で藤村選手の次男・雅美さんが監督、その息子・光司選手が捕手を務める兵庫・育英高が出場し話題となりました。

「甲子園の申し子」のDNAは、藤村家に脈々と受け継がれているようですね!

1935年暮れに設立された大阪タイガースは、甲子園のスター、藤村選手勧誘に乗り出します。法政大進学を決意していた藤村選手でしたが家庭の事情によりプロ入りしました。

学生野球で活躍した選手が職業野球(当時のプロ野球の呼称)入りするということは快く思われていない時代であり、藤村選手自身も複雑な思いを抱えてのプロ入りだったようです。

1936年、大阪タイガース初の公式戦、対名古屋金鯱軍戦に先発した藤村選手は、1安打完封で見事初陣を飾ります。さらに東京巨人軍との初対戦でも勝利投手となりました。

投手でありながら登板機会が無い試合では野手として出場し、秋のシーズンでは投手ながら本塁打王を獲得しています。

1937年からは野手としてのプレーに比重を置きますが、当時のタイガースには景浦將選手を筆頭に松木謙治郎選手や藤井勇選手ら強打者が揃っており、戦前の藤村選手はどちらかというと脇役の選手でした。




1939年に入隊、1943年に除隊となりタイガースへ帰ってきたものの、4年にも及ぶ軍隊生活で疲労しており、当初は思うような成績が残せませんでした。しかし1944年シーズンでは打点王を獲得しています。戦時中で職業野球に対する風当たりが厳しさを増す中、タイガースを守りました。

終戦後間もない1945年11月23日に行われたプロ野球東西対抗戦に「西軍・3番」で出場します。東軍の白木義一郎投手からセンターオーバーのランニングホームランを放ち、プロ野球復活を高らかに宣言しましています。

1946年からリーグ戦が始まると、藤村選手は兼任監督に就任します。選手としては「4番・三塁手」が定位置となりました。

同時期、セネタース・大下弘選手がホームランを量産。藤村選手も勝負強いバッティングで打点を挙げますが、ファンは大下選手に惹かれていきます。

それなら・・・と藤村選手が考えだしたのが「物干し竿バット」です。ゴルフクラブは遠くへ飛ばすものほど長い、ということをヒントとし、通常品よりも長いバットを特注したのです。長いバットを使えば遠心力が増し、ボールは確かに飛びますが、それに伴い体への負荷も大きくなります。

そこで藤村選手は漬物石をバーベル代わりに使用し腕力を鍛えました。さらに、「バットを乾燥させるにはアンモニアが良い」と聞くと自宅のトイレにバットをぶら下げておくなど、努力を重ねていきます。

1948年、タイガースに別当薫選手が入団しました。別当選手は慶応大出身のインテリで冷静な雰囲気を漂わせています。藤村選手は別当選手とは違い、旧制中学出身の闘志をむき出しにするプレースタイルでした。

別当選手がプロ1年目のオープン戦から本塁打を量産することに触発され、ライバル心に火が付きます。

この年、藤村選手はプロ野球初となるサイクル安打を達成しました。翌1949年には、別当選手の記録した打率.322 39本塁打126打点を全て上回る打率.332で46本塁打142打点で本塁打・打点の二冠を獲得しています。142打点は今岡誠選手に更新されるまで球団記録でした。

チームは最下位でしたが、藤村選手はMVPを獲得。それだけ、球界・ファンに与えるインパクトは大きかったのです。

そしてこの年のオフ、藤村選手が「ミスター・タイガース」と呼ばれる決定的な出来事が起こりました。

1950年シーズンからプロ野球は2リーグ制になることが決定します。セ・リーグの巨人に対抗すべく、パ・リーグは毎日新聞社に働きかけ、毎日オリオンズが誕生しました。

しかし、チームは出来たものの、肝心の選手が弱くては巨人に対抗できません。そこで毎日球団はあろうことかタイガースから選手を引き抜くことにしたのです。

毎日球団へ別当選手の他、エース・若林忠志、正捕手・土井垣武両選手ら主力をごっそり引き抜かれたタイガースにあって藤村選手は誘いに応じませんでした。

「ワシはタイガースの藤村じゃ」

ミスター・タイガース誕生の瞬間です。

藤村選手を始め、パ・リーグ移籍を思いとどまり関西に残った選手を、地元のファンが応援しないわけがありません。かくしてタイガースは関西で絶大な人気を誇る球団となったのです。

また、藤村選手も当時の人気歌手・笠木シヅ子さんのショーを見て「ファンを楽しませる」ということに目覚め、実際に愉快なプレーでファンを笑顔にしました。

投手として登板した際は股の間から二塁走者をけん制したり、ホームランを放ち万歳しながらベースを回ったり、内角を突かれたら大げさにひっくり返ってみたり・・・。現代のプロ野球でやればたちまち炎上しそうなプレーばかりですが、当時のファンは藤村選手に喝采を送りました。

しかし、その一方で藤村選手のスタンドプレーとも言える行いに眉をひそめる人々も確かにおり、後々に藤村選手を追い詰めることになります。

1949年は、小鶴誠選手に打率で一歩及ばず、三冠王を阻止されてしまいます。1950年には逆に打率.362で首位打者を獲得しました。今度は、小鶴選手が本塁打と打点の二冠を獲得したものの、打率では逆に藤村選手が阻んだのです。

この年放ったシーズン191安打は、1994年にオリックスブルーウェーブ・イチロー選手が210安打で破るまでプロ野球記録でした。同年には2度目のサイクルヒットを達成。複数回達成の第1号となっています。

1953年、打率.294 27本塁打98打点で二冠王に輝いたのは37歳のとき。1955年、新たに就任した岸一郎監督は若手起用を打ち出します。藤村選手に代え田宮謙二郎選手を4番に据えたり、ベテランの真田重男・藤村隆男(藤村選手の弟)両投手ではなく渡辺省三・小山正明両投手ら若い投手を起用しました。

これに対し、猛然と反旗を翻した藤村選手は、代走を送られると「まだ(引っ込むには)回が早すぎる」と選手を追い返します。他のベテラン選手も追随し、結局岸監督はわずか33試合で解任、後継監督は藤村選手が兼任しました。

しかし、自分が得意ではない投手の時はスタメンに出ず、相性の良い投手の時は出場する兼任監督に反発の声が上がり始めます。そうなると今まで声を抑えていた、藤村選手のスタンドプレーを快く思っていなかった人々も公然と批判するようになりました。

さらに、人の好い藤村選手はスーパースターでありながらお金に執着はなく、球団の年俸提示額に揉めることなく従います。他の選手が「もっと給料を上げろ」と言っても「藤村選手でこれだけなんだから・・・」と言われてしまえばアップは見込めません。




そういった不満が球団内に渦巻き、ついには1956年オフ「藤村排斥事件」という内紛に発展してしまいます。そのため藤村選手は1956年限りで引退、翌1957年からは監督に専念することとなりました。

1957年、監督専任となりチームを2位に導きます。しかし同年オフ球団から「監督からの退任、代打専門選手としての復帰」を通告されました。「考える時間をくれ」と藤村選手は即答を避けますが、球団はその意向を無視し、一方的に発表。

1958年、不本意な形で現役復帰したものの、放った安打はわずか3本。同年オフ、甲子園球場内の食堂で引退記者会見を行い、ミスター・タイガースはチームを去りました。

1959年3月2日、甲子園球場でのオープン戦、対巨人戦は「藤村富美男選手引退試合」と銘打ち開催されました。これは日本で初めて行われた引退試合とされています。

引退と同時に藤村選手の背番号10番はチーム初の永久欠番に制定されました。これにより、藤村選手以外の誰も背番号10番を着けることはなくなったのです。

引退後は国鉄スワローズ、東映フライヤーズでコーチを歴任しました。東映時代は無名の新人、大杉勝男選手の才能を見抜き、獲得を強く推した事でも有名です。

1974年、野球殿堂入りを果たしました。

1992年5月28日、藤村選手は75歳の生涯を閉じます。同年、古巣・タイガースは「亀新フィーバー」で快進撃の最中です。きっと天国から藤村選手が叱咤激励していたことでしょう。

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背番号10番・藤村富美男選手はこんな人

1950年、2リーグ分裂による選手引き抜きで戦力ダウンしてしまったタイガースにあって、藤村選手はまさに「孤軍奮闘」していました。

藤村選手と同時期に巨人でプレーしていた青田昇選手は「巨人は9人がかりで、あのオッサン(藤村選手)を潰しにいった」と語っています。また、同じく巨人の川上選手は「一人でがんばっていた」と藤村選手の思い出を語りました。

藤村選手が残した数字も一流のものがありますが、それ以上に「存在感」がありりました。ファンを巻き込む魅力があり、とても一人では太刀打ち出来る選手ではなかった、ということがお二人の証言から浮かび上がってきます。

「ミスター・タイガース」は掛布選手で4代目とされていますが、藤村選手こそがミスターであり、他の選手はその名に値しないと語る方もいます。

青田選手は「(藤村選手が)引き抜きに応じず、タイガースに残ったからこそ今のプロ野球はある」、川上選手も「今のタイガースがあるのは、藤村選手のおかげ」と異口同音に藤村選手について語りました。

確かに大下選手は戦後の荒廃した空に、虹のようなホームランを放ち、一躍人気選手となっています。しかし、大下選手は所属していたセネタースを離れ、西鉄ライオンズに移籍し黄金期を築きました。

しかし、西鉄には稲尾和久投手、中西太・豊田泰光両選手らメンバーが揃っており、大下選手一人で球団の栄華を作ったわけではありません。

対し、藤村選手に成績で肩を並べれるような選手は、タイガースにはいませんでした。それでもチームを人気球団に押し上げたのです。

藤村選手はコワモテの風貌でありながら、お酒は一切飲めず、甘いものに目が無かったそうです。大好物はアンぱんとサイダーだったといいます。藤村選手が亡くなった後、奥様が仏前に供えたものは、好んで飲んでいたという「オロナミンC」でした。

現役時代は不愛想で口数も少なく、決してマスコミやチームメートとの関係は良好とはいえませんでした。しかし、根底にあったものは「チームを強くしたい」、「ファンを喜ばせたい」それだけだったのです。

幼いころからタイガースファンで、後に選手として入団し監督まで務めた安藤統男選手は、「ガキの頃見た藤村選手はユニフォームの袖についているトラの絵にそっくりだった」と述懐していました。

タイガースは「猛虎」と称され、チームへの忠誠心は「猛虎魂」と呼ばれていますが、この「猛虎魂」はすなわち「藤村魂」であり、タイガースが存続し続ける限り「藤村魂」は消えることはありません。

「甲子園の申し子」は死して「甲子園の守り神」になったのですから。

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