埼玉西武ライオンズの背番号0番!歴代の選手と傾向をご紹介!

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

日本でプロ野球が始まってから、最初に背番号0番をつけたのは、1983年の広島東洋カープ長嶋選手です。

長嶋選手がつけてからは各球団でも使用され始めました。埼玉西武ライオンズでも背番号0番をつけた選手が登場しましたが、球団創設後40年以上経ってからの事です。

今回は、そんな埼玉西武ライオンズの背番号0番について特集します。0番をつけた全選手の紹介や、印象深い3選手、さらに0番をつけた選手の傾向もご紹介しますので、楽しみにして下さいね。




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歴代の背番号0番を背負った選手をご紹介

2021年のシーズン開幕時点で、埼玉西武ライオンズの背番号0をつけてきた選手は7人になります。まずは、その7人をご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1996年~1997年2年西武ライオンズ羽生田忠克選手
1998年~2002年5年西武ライオンズ河田雄祐選手
2003年~2006年4年西武ライオンズ高波文一選手
2007年~2012年6年西武ライオンズ~埼玉西武ライオンズ大崎雄太朗選手
2013年1年埼玉西武ライオンズ空白
2014年~2015年2年埼玉西武ライオンズ森本稀哲選手
2016年~2017年2年埼玉西武ライオンズ木村昇吾選手
2018年~2020年3年埼玉西武ライオンズ水口大地選手
2021年~2022年空白
2023年~埼玉西武ライオンズ児玉亮涼選手

初代は羽生田忠克選手です。ドラフト外で入団し派手な活躍はなかったもの、の15年間現役を続けた選手です。

2代目・河田雄祐選手は、広島東洋カープなどでも活躍した選手です。現役時代よりもコーチとしての経歴の方が長くなっています。

3代目・高波文一選手は、強肩俊足の外野手で阪神タイガース時代で活躍したイメージの強い選手ですが、西武ライオンズに在籍時代には背番号0をつけました。

4代目・大﨑雄太朗選手は、主に控えだったものの交流戦や代打で結果を残した外野手です。後に背番号を9に変更しています。

5代目・森本稀哲選手は、明るいキャラクターやファンサービスで多くの野球ファンに愛された選手です。引退前の2年間は西武ライオンズで背番号0をつけたいました。

6代目・木村昇吾選手は、内野のユーティリティープレーヤーとして活躍した選手です。引退後はクリケットへの転向で話題となりました。

7代目・水口大地選手は、独立リーグ出身で163cmの小柄ながら内外野を守れる俊足の選手としてチームに貢献しましたが、2020年シーズンオフに現役引退しました。

8代目・児玉亮涼選手は2022年のドラフト会議でライオンズから6位指名を受け入団しました。身長166cmと小柄ながら、俊敏な動きと堅実な守備を見せる内野手です。

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背番号0番を背負って活躍した3選手のご紹介

次に、歴代の埼玉西武ライオンズの背番号0番の選手のうち、私が特に印象深く思う、河田選手、大﨑選手、そして森本選手をご紹介したいと思います。

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河田雄祐選手

生年月日  1967年12月22日
出身地   東京都練馬区
投/打   右/左
プロ野球歴
広島東洋カープ(1986年~1995年)
西武ライオンズ(1996年~2002年)

河田選手は、1985年のドラフト会議で広島東洋カープから3位指名を受け入団しました。

長らく2軍生活が続きましたが、入団5年目の1990年に1軍試合に初出場しています。この年は17試合に出場しましたが、打席に立ったのは1打席のみでした。

その後もレギュラー定着とまではいきませんでしたが、自慢の俊足強肩を生かし守備固めや代打での出場でアピールを続けます。

1995年には、自己最多となる106打席に立ちますが、打率.164と打撃の方では結果を残すことができず、オフには野々垣武志選手とのトレードで西武ライオンズへ移籍することとなりました。

西武ライオンズでも広島時代と同じような起用方法が続きましたが、それも自分の役割をこなし続けます。1997~1998年には東尾修監督のもとで1軍定着し、リーグ連覇に貢献しました。東尾監督からは堅実なプレーで「スーパーサブ」と呼ばれ重宝されました。

1998年に背番号を「0」へ変更しています。

2002年には現役引退をしますが、レギュラーでもない選手が17年も現役を続けていたことから、スーパーサブとして重宝されていた選手だったということが伺えます。

引退後の2003年からは13年間に渡って西武ライオンズの守備走塁コーチとして活躍しましたが、当時の伊原監督や渡辺監督からは優秀なコーチとして評価され信頼を得ていました。

その後も、広島カープやヤクルトスワローズの守備走塁コーチを歴任しています。

広島カープの守備走塁コーチに就任した際は、チームの盗塁数を80からリーグトップの118に増やしており、機動力野球でリーグ優勝に多大なる貢献をしました。

現役時代はスーパーサブとしてチームに貢献してきましたが、引退後も長年にわたって縁の下の力持ちのような形でチームを支えています。

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大﨑雄太朗選手

生年月日  1984年10月18日
出身地   東京都昭島市
投/打   右/左
プロ野球歴
埼玉西武ライオンズ(2007年~2017年)

大﨑選手は、常総学院高校から青山学院大と野球の名門でプレイし、2006年のドラフト会議で西武ライオンズから6位指名を受け入団しました。

この年、青山学院大学野球部からは大﨑選手のほかに、横川史学選手、円谷英俊選手、高市俊選手がドラフト指名されており、同時に4人がプロ入りしています。

大﨑選手は入団時から背番号0をつけ、6シーズンに渡ってこの背番号をつけていましたが、これは西武ライオンズの背番号0をつけた選手の中で最長です。

入団1~2年目は主に2軍の試合での出場となりましたが、シーズン終盤戦には1軍での出場も果たしました。プロ3年目には75試合に出場し、U-26NPB選抜にも選出されるなど今後に期待がかかるシーズンとなりました。

プロ6年目の2012年にはキャリアハイとなる107試合に出場し、298打席に立ち、打率.269の成績を残しています。翌2013年には背番号を0から9に変更しています。

その後、月間MVP候補に選出されたり、交流戦では当時の最高通算打率を記録するなどの活躍は見せていましたが、シーズンを通して1軍で活躍することはできませんでした。

そして2017年のシーズンオフに戦力外通告を受け、33歳で現役引退となります。

169cmとプロ野球選手としては小柄ながら、パンチ力のある打撃と外野だけでなく時には内野も守れるユーティリティが持ち味の選手でした。
プロ野球選手の引退後のセカンドキャリアはあまり注目されることはありませんが、球団や知人から仕事を紹介してもらったりすることが多いようです。

また、何らかの形で野球に関わることも多いです。

大﨑選手の場合、「履歴書を仕上げるところから自分で仕事を選びたい」という理由で、自分で業界研究をした上で、M&A関連企業やコンサルティング企業に自ら履歴書を送りました。

複数の企業から内定を得て、とある企業に入社した後に、「元プロ野球選手という肩書では野球以外の業種での仕事や一般企業への就職活動に全く通用しないが、次の仕事でも研鑽に努める事が元プロ野球選手として果たすべき責務だ」と述べ、プロ野球選手のセカンドキャリアの新しい形を示しています。

森本稀哲選手

生年月日  1981年1月31日
出身地   東京都荒川区
投/打   右/右
プロ野球歴
日本ハムファイターズ(1999年~2010年)
横浜ベイスターズ(2011年~2013年)
埼玉西武ライオンズ(2014年~2015年)
タイトル等 ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞3回、オールスター出場3回

森本選手は、1998年のドラフト会議で日本ハムファイターズから4位指名を受け入団しました。また、名門帝京高校出身で、先にご紹介した河田雄祐選手の後輩になります。

入団1年目こそ1軍の試合の出場はありませんでしたが、2年目に1軍の試合に初出場すると、3年目には65試合出場と徐々に存在感を増していきました。

順調に成長を続けているかと思いきや、4~6年目は出場試合数も成績も上げることができず伸び悩んでしまいます。

そんな森本選手が劇的に変わった結果は、何と言っても2004年シーズンから新庄剛志選手が日本ハムファイターズに入団したことです。

当初は同ポジションに新庄選手というスター選手が入団することに快く思っていなかったようです。

しかし打撃や守備を毎日根気強く教わっているうちに「自分のためを思って言ってくれている」と感じて慕いだしたそうです。

その結果、2005年には103試合に出場し、打率.264、7本塁打の成績を残し、格段に打撃が向上しました。この頃から、新庄選手らとともに、かぶりもの等を着用し球場を訪れたファンヘのファンサービスが注目を集め始めます。

人気選手となった森本選手は3年連続でオールスターゲームに出場し、2006年のゲームではホームスチールも成功させました。もちろん、選手としても1番打者に定着し、3年連続のゴールデングラブ賞やベストナインにも選出されています。

その後、FA制度により横浜ベイスターズに移籍しましたが、日ハム時代の全盛期のような活躍はできませんでした。最終的には西武ライオンズで背番号0をつけてプレーし、現役生活を終えています。

在日韓国人だったことや(現在は日本に帰化)、汎発性円形脱毛症で髪の毛が生えない病気などでその人生は全てが簡単なものではなかったと思います。

しかし、そんなことを感じさせない森本選手の明るいキャラクターは、多くの野球ファンに愛されました。まさに、記録よりも記憶に残る選手の1人です。




背番号0番をつけた選手の傾向とは?

西武ライオンズの背番号0番は、さほど歴史のある背番号でもなく、入団時から引退までといった長期間に渡って使用した選手もいませんでした。

傾向や特徴として、背番号0番をつけた7選手は、いずれも野手で、外野をメインに守る選手が多いようです。

プレースタイルとしては、スラッガータイプというよりも、河田選手や高波選手のような俊足強肩で「走れて守れる」選手ばかりです。

まだまだ、他の一桁背番号のような実績はありませんが、このようなプレイスタイルの若手や、他球団から移籍してきた選手が「期待を込めて」着用する背番号として定着しつつあるように感じます。

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